2010年03月25日(木) |
窓際に立つと、雨の気配をありありと感じることができる。窓を開け、ベランダに出れば、粉のような雨がひっきりなしに降っている。隙間なくそれは、辺りを覆い尽くしている。冷たい雨だ。昨日よりもさらに冷え込んでいる。粟立つ腕を手のひらでさすりながら、私は雨を眺めている。街灯の灯りの輪の中、それは泳ぐように降りしきる。 顔を洗い、鏡を覗く。鏡の中、少し黒ずんだ肌。昨夜は寝入ることがなかなかできず、何度か体の位置を直した。娘の規則正しい寝息を聴きながら、何処まで行ったら眠れるんだろうなぁと思ったことを覚えている。 目を閉じ、耳を澄ます。体の声に耳を澄ます。胃の辺りの穴ぼこは、今朝もおとなしい。私が気づいたことで、少し慰められたのだろうか。私はその穴ぼこに向かって挨拶してみる。穴ぼこは何も返事をしない。具合はどう、と尋ねてみる。穴ぼこはただひゅうひゅうと風の通るときに出るような音を出すばかりで、言葉としては応えない。私はしばらくその音のなる方に、寄り添ってみる。 考えてみれば、この穴ぼこがいつ生まれたのかはまだ分からないけれども、こんなふうに寄り添ったことがあっただろうか。いつも気づかないか見て見ぬふりを私はしてきたのではないだろうか。そのせいで、穴ぼこは余計に、大きく育っていったのかもしれない。そんな気がする。 寄り添い、耳を澄ましていると、記憶の中から幾つかの声がする。おまえさえいなければ。おまえは一体誰に似たんだか。おまえなんて。それらはすべて、父や母の言葉だった。そういった言葉を食べて、この穴ぼこは生きてきたのかもしれない。 そうしてしばらくすると、今度は右腕に違和感を覚えた。何だろう。私は耳を澄ましてみる。じくじく、じくじくと痛みがあるようだ。私を切り刻まないで。腕はそうして泣いている。大丈夫、もうあなたを切り刻むことはないよ、と私は応える。左腕は傷でいっぱい、右腕は、数えられる程度の傷が残る私の腕。酷使してきたなぁと今なら思う。この腕たちがなかったら、私はあの頃を生き延びてくることはできなかったろう。この腕たちが犠牲になってくれたから、私はあの頃を生き延びることができたんだ。そう思う。 試しに左腕にも耳を傾けてみる。でも左腕は何も言わない。まるで、もはや何かを発することを諦めきっているかのようだ。そりゃそうだろう、これほど傷だらけにされたら、もう諦めてしまいたくなる気持ちも分かる。私は左腕をそっとさすってみる。その感触は分かるけれども、手のひらの温度は分からない。そういう腕になってしまった。私はごめんねと謝ってみる。左腕はまだ、何も言わない。 またねと挨拶をして、私は瞼を開ける。そうして大きく伸びをして、食堂に戻る。テーブルの上には水仙と白薔薇がそれぞれ花瓶に生けてある。水仙は相変わらずぱっくりと口を開け、燦々と歌を歌うかのように咲いている。黄色という色は一体誰が選んだのだろう。こんな元気になる色も他にない気がする。 白薔薇は昨日ぐんと短くなった。迷った挙句、挿し木することにしたからだ。丈の短くなった薔薇は、それでもしゃんと背筋を伸ばして咲いている。凛々という音がこれほど似合う花も他にあるまい。 お湯を沸かし、お茶を入れる。湯気がふうふうと立ち上る部屋の中。それだけ温度が下がっているということか。私は再び窓を見やる。今日は一日きっと雨模様なのだろう。空がちっとも明るくならない。鼠色の絵の具を水で伸ばして、びっしり空を埋め尽くしたらこんなふうになるんじゃなかろうか。隙間がこれっぽっちもない。なんだかちょっと、寂しい。 プレイヤーのスイッチを入れると、流れてきたのは有元利夫のロンド。その音に耳を傾けながら、私はとりあえず、朝の仕事に取り掛かる。
娘の通う塾へ出掛ける。今日は担任との面談があるのだ。そういえば去年、娘が骨折した折は、ほとんど毎日のように彼女の送り迎えをしていたんだっけと思い出す。雨の日は傘がさせず、私の傘に二人寄り添うようにして入りながら、一歩一歩進んだ。それでも娘はつるりんと滑って転ぶことが多々あった。そのたびお尻を強く打ちつけ、泣いていたっけ。彼女を塾に送り届け、それから喫茶店で塾が終わるまで時間を潰し、彼女を迎えに行っていた。今思うと、よくあんなにできたなと思う。また、降りる駅も乗る駅もどちらも、松葉杖や車椅子で行くには不便なつくりであることを、その時痛感させられたのだった。それでもよく、彼女は通った。足が痛いと嘆いたことはほとんどなかった。よく頑張ったなと改めて思う。 ようやく名前を呼ばれ、部屋に入ると、今年の担任だという女性の先生が、あれやこれや話し出す。よく娘の性格を捉えているなと感心させられる。だから私も、今年に入ってからの様子などを、できるだけ先生に伝える。そうして、方針が決まり、挨拶をして出る。先生に見送られて塾を後にして、ふと気づく。以前だったらここで、ぐったり疲れ果てていただろうに、今日私はそこまで疲れてはいない。この変化は何だろう。以前は慣れない人と会うというだけで、それだけで負担だったのだと思う。でも今、こうして事を終えて出て歩いているわけだが、私は少なくとも、周りの景色をぼんやり眺める程度の気力は残っている。大きな変化だ。 そうこうしているところに、友人から電話が入る。出ると、生き方を考え直そうかと思うと彼女が言う。これまでの生き方を今後も続けていかなくても、いいんじゃないかと思えてきたのだという。自律したい、ということか。私は彼女の話に耳を傾けながらそう思う。どういう動機があったとしても、自律したいと思って試みることは、素敵なことだと思う。私たちの人生がもしも八十年だったとしたら、もう半分生きようとしているということだ。半分生きてきて、そうして自分の生き方を省みる。そして何か違うなと思うなら、修正してみる。まだまだ時間はある。トライしてみるといい。そう思う。 電話を切って、改めて、八十年という時間を考える。もし、私の人生が八十年じゃなく七十年や六十年だったら、もう半分はすでに生きたことになる。よくもまぁここまで生きてきたものだ。そして、同時に、ここから先、あと半分もないことを思うと、結構慌てる。まだしたいこと、やりたいこと、山積みのような気がする。
「自分自身を知るには、人は動きの中にある自分、つまり関係に気づいていなければなりません。あなたは自分自身を孤立や引きこもりの中にではなく、関係の中に発見するのです」「あなたや私が私たちの相互の関係の中でそれをつくり出したのです。あなたの内部にあるものが外部に、社会に投影されるのです。げんにあるあなた、あなたが日々の生活の中で考え、感じ、行なうことが、外部に投影されるのです。そしてそれが世界を構成します」「あなた自身と私自身との関係、私自身と他の人との関係が社会だからです」「私たちは足元から始めねばなりません。つまり、日々の生活に自分を結びつけ、生計の立て方や考え、信念との自分の関係の中で明らかにされる、自分の日常の考え方や感じ方に関心をもたなければならないのです」「あなたは自分自身を瞬間毎に他者との関係の中で発見しているがゆえに、関係は全く違った意味をもつようになるのです。関係はその時、一つの革命、たえまない自己発見のプロセスとなり、この自己発見から行動が起こるのです」「自己理解は関係を通じてのみやってくるのであって、孤立から生まれるのではありません。関係はアクションであり、自己理解はアクションに気づいていることの結果なのです」「生は深い水をたたえた井戸のようなものです」「非難や正当化なしにセルフの活動に気づいていること―――ただ気づいていること―――で十分です」「精神の活動が存在するかぎり、そこに愛はありえません。愛があるとき、私たちは社会的な問題をもたなくなるでしょう」。
塾に出掛ける娘とすれ違いに帰宅すると、玄関を入ったところで電話が鳴った。娘からだ。どうしたのだろう。出ると、ごめんなさい、と言っている。お弁当をあたためようと思って電子レンジにかけたら、蓋をしっぱなしでやったため、ヒビが入ってしまったのだという。自分でやっちゃったから、買い換えなくていいからね。娘が言う。それより、怪我とかしなかった? 私が尋ねると、うん、でも本当にごめんなさい、と娘が言う。怪我なかったならよかった、何事もやってみて初めて気がつくようなもの、まぁヒビが入った程度で済んだなら、それでよし、だ。じゃ、頑張ってね、うん、それじゃぁね。電話が切れる。 薔薇の枝を手にとって、葉のあるところでぱつんと切る。そうしてベランダの、挿し木だけを集めた小さなプランターに挿してみる。さぁ、根付くだろうか。どうだろうか。 こうして挿し木をしていて思う。妊娠に似ているな、と。私に何ができるわけでもないのだが、こうしてプランターの中、育つかどうかまだ分からない挿し木を、毎日眺め、水を遣り、世話をする。新芽がとりあえず出たとしても、そこで立ち枯れる枝もある。だから油断はならない。ひたすら気持ちを向けていてやらないと、それはそこで駄目になる。 切花というのは、それを楽しんで終わり、というようなところが確かにある。でも、こうして挿してその先を楽しむ方法もまた、あったりする。挿し木ができる薔薇の花が好きだという自分に、なんだか運命のようなものを感じるのは、気のせいだろうか。花が終わっても、その先がある、その先こそ、実は、命の繋がる場所だったりする。 私は挿したばかりの枝をしばらく見つめている。その隣は、新芽がせっかく出たのに、その新芽から枯れ始めている。でもまだ取り除くことが躊躇われ。もう枯れたことは分かっているのだが。切ない。その隣のものはぐいぐいと新芽を広げ始めている。こちらは無事にこれから育つかもしれない。でもまだ分からない。気を抜くことはできない。毎日こうして見ていてやらないと。そう思う。 これをくれた友人の顔がふと浮かぶ。もし花が咲いたら。もし根付いて花が咲いたら、彼女にそれをプレゼントしようと思う。それがいつになるか分からないけれども。それでもきっと。
未来少年コナンのDVDを見ていた娘がふと、もう2000年なんて過ぎてるし、と言い出す。私もはっと気づく。そうか、もうコナンは未来少年じゃぁなくなっていたのだ、ということ。私たちが子供の頃、それは遥か彼方の時間だった。だから本当に、将来こんな世界がやってくるのではないかと思ってそれを見ていた。だからこそ、未来少年コナンの姿は、鮮やかで、これでもかというほど生き生きとしていた。 今見てどう思う? 私は試しに娘に尋ねてみる。私、コナン好きだよ。どこが好き? だってさぁ、こんなのあり得ないってことコナンがやると、それもありなのかなって思えるし、何より、信じれば叶う、みたいなとこがあるじゃん。あぁ、なるほどぉ。信じていれば絶対に叶う、みたいなさ。そういうところ、好き。そかそか、それならいいや。ママはコナン嫌いなの? え、好きだよ、っていうか、アニメの中で特に好きな部類だよ。よかった。なんで? ママ、嫌いなのかと思ったから。 そう言われて、私ははたと思い至る。彼女の、私と一緒じゃなくちゃいけないんじゃないかというような感覚。だから私は言ってみる。ママが好きでも嫌いでも、そんなこと関係ないんだよ、あなたが好きかどうか、やりたいかどうか、それが一番大事なんだよ。うん、分かってるよ。それならいいんだけど。ママはさ、ママと一緒だからいいなんて思わないよ、あなたはあなた、ママはママ、別々の人間なんだから、別々のものを好きで当たり前なんだよ。ね? ふーん。みんなそれぞれだよ。それでいいんだよ。ふーん。
じゃぁね、それじゃぁね、雨だから気をつけてね。うん、気をつける、あなたもね。 玄関を出ると、粉のような雨が降りしきっている。その中をひたすら歩く。自転車で走れないのがちょっと寂しい。しかも土曜日日曜日と撮影を予定している。それまでに晴れてくれるだろうか。いや、晴れてくれないと困る。そのためにも今のうち、思い切り降りしきればいい。 公園を横切り、大通りを走って渡り、埋立地へ。銀杏の樹たちがびっしり濡れて、そそり立っている。その横を通ってまた横断歩道を渡る。自転車で走るのと歩くのとではこんなに違うのか、と、改めて思う。長い道程だ。 もう一つ横断歩道を渡ったところで、千鳥と出会う。雨の中だというのに、彼女はひっきりなしに地面を突付いている。何かいるんだろうか。そうしてぱっと飛び立った。雨雲の下、その姿はくっきりと浮かび上がり。 やがてビルの影に消えていった。 さぁまた一日が始まる。今日という一日が。 |
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