見つめる日々

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2010年03月27日(土) 
窓に近寄るほど、空気がぐんぐん冷え込んでいくのが分かる。その窓を思い切り開ける。ぐいっと冷気の中押し出されるかのような感覚を味わう。実際には私は動いていない。でも、冷気の中に押し出されるような、いや、冷気がぐいとこちらに入り込んできたような、そんな感覚。とたんに全身鳥肌が立つ。雨はとりあえず止んだ。止んだだけでもよかった。明日朝一番に撮影がある。その天候が心配でならなかった。曇りであっても、雨さえ降っていなければカメラを持って走り回ることができる。もうそれだけで、とりあえず、よし、だ。
しばらくベランダに突っ立っていると、指先がかじかんでくる。その指でイフェイオンを弾いてみる。しゃんしゃんと、鈴の音が聴こえてきそうな気がする。ここに引っ越してきて気づいたのだが、私の家から郵便局に行くまでの坂道にも、イフェイオンが咲いている。今まさに花盛りなのだが、なんというか、色がちょっと薄い。うちの青味がかった色に、白を混ぜたような、そんな色だ。土の違いなんだろうか、それとも、長年咲いて来て年をとったんだろうか。うちのイフェイオンもいつか、ああした色になるんだろうか。
イフェイオンの向かい側、ミミエデンが植わっているのだが、今朝も新芽に粉を噴いたものを見つける。私はただ摘む。粉を落とさぬよう気遣いながら、根元から摘む。
ベランダの端の方、パスカリが、ようやくうどんこ病から脱したようで、新芽を次々出している。でも油断はならない。いつまた病気が復活するか誰にも分からない。
部屋に戻り、顔を洗う。鏡の中、少し疲れたような顔。目を閉じ、体の中を探索する。今朝も穴ぼこが静かだ。おはよう、穴ぼこさん。私は挨拶をする。しゅるり、というような音がしたようなしなかったような。でも、まだ言葉を喋ってくれるほどじゃぁない。まだ私たちはそこまで親しくはなっていない。長いこと私が放置しておいたのだ。それが当たり前だろう。でも、何だろう、穴ぼこは確かに在ることは在るのだが、出会った最初のときのような、恐ろしい何かを感じることはなくなった。ただそこに在る、といった感じ。しばらくその穴ぼこのそばに腰を下ろし、寄り添ってみる。今私にできることは、そのくらいだろう。しばらくそうして寄り添って、また来るねと挨拶をしてから、私は別のところも探索してみる。胸と胸の、ちょうど間、真ん中に、違和感を覚える。小さな違和感。何だろう、これは。私はしばらく耳を傾けてみる。少し前にも、そう、昨日だったか一昨日だったかの昼間も、そんな違和感を覚えたことを思い出す。あの時すぐに耳を澄ましておけばよかったと少し後悔。でも今更遅い。私は耳を澄まし、ただ、その違和感が何か言ってくるのを待ってみる。何も言わない。でも何だろう、しくしく、しくしく、泣いているような気がする。それはとてもとても小さなしこりで、見落とすことは至極簡単で。でも、泣いているのだと今気づいた。もしかしたら君は、昔の私の一部ですか、と尋ねてみる。返事はない。返事はないが、一瞬沈黙が走る。あぁ、そうなのかもしれない、と思う。そうだとしたら、今すぐ返事はないだろう。長い時間をそこで過ごしてきたしこりなのだ。しかも私がきっと、ケアしてこなかったしこりなのだ。言葉を発してくれるようになるまでには長い時間がかかるだろう。でも、君がそこに在ることは、ちゃんと分かったよ、と、私は声を掛ける。そうしてまたしばらく時間を過ごし、私はまた来るねと言って、瞼を開ける。
食堂のテーブルの上、白薔薇がきれいにまだ咲いていてくれている。でも水仙は、昨日の夕方から突然、くしゃくしゃと萎れ始めた。満開になってしまってから切ったから、早かったのかもしれない。まだ数本、残っているものもあるのだが。私はその数本を残して、くしゃくしゃになったものたちをビニール袋に入れる。ありがとうね、今日まで。そう声を掛けながら入れる。約一週間、私の目と心を楽しませてくれた水仙だもの。本当にありがとう。
白薔薇を水切りしながら、私はお湯を沸かす。いつものように生姜茶を入れる。たちのぼる湯気が、暗い部屋の中、ひときわ濃く見える。
さぁ、とりあえず朝の仕事だ。私は椅子に座り、準備を整える。

授業の日。アートセラピーの二回目。動的家族描画法だ。実際に自分たちも描くということで、スケッチブックと色鉛筆、サインペンを持参する。正直、絵など描きたくない。その気持ちが先週の今頃、色濃く在った。でも、ナタリー・ロジャーズの著書を読み始め、あぁ、そんなこと気にしていてもしかたないな、という気持ちにもなった。
そもそも、自分が描きたくなくなったのには、明らかな原因がある。私はもともとは、絵本作家になりたいという夢をもつ子供だった。そのくらい、絵を描くことが大好きだった。絵を描いていると自分を忘れた、時間を忘れた、ただ無我夢中になることができた。大好きな作業だった。幸運なことに、私は、絵のコンクールで表彰されることが多々あった。当時、区や市の巡回展などがあると、必ずその候補に選ばれた。自分の絵が他の人の絵に混じってあちこちを巡回して回る、それがなんだか誇らしくて、嬉しくて、たまらなかったことを覚えている。
それが或る時、そう、小学五年生のときだ。担任は、特定の生徒を苛めるようなところがあった。勉強ができない子などがその対象だった。正義感に溢れる子供だった私にとって、それは、赦せない行為だった。いくら先生であっても、オトナであっても、そんなことが赦されるはずがない、という気持ちがあった。そのため、先生に抗議した。
その途端、先生は今度、私を苛めの標的にした。雪の日屋上に閉じ込められてぶるぶる震えながら何時間も過ごしたこともあった。みんなの前で吊るし上げを食らったこともあった。そうして或る日。先生は私の目の前で、私の絵を、ゴミ箱に棄てた。
それはシクラメンを描いた絵だった。母の大好きなシクラメンを、描いた絵だった。それは、巡回展に参加するはずの絵でもあった。それを、先生は私の目の前で、ゴミ箱に棄てた。こんな絵なんて、とそう言って、棄てた。
以来、絵を描くことを、私は極力避けた。二度と描きたくないと思った。あんなふうに、大事な絵を棄てられるくらいなら、もう二度と描くものかと思った。
同時に、絵本作家になりたいという夢も泡のように消えた。
そういうことがあったから、私はなおさら、描くということに、抵抗を持っていた。今もまだ、あの傷は、生々しく残っている。過去のもの、と分かってはいるが、できるならあまり思い出したくない出来事の一つ、だ。
でも、授業で、描かないわけにはいかない。描かないでいたら、次に進めない。
それでは、描いてみてくださいね、と講師に言われ、私はしばし、画用紙と向き合う。そして、えいやっとばかりにサインペンを走らせてみる。
動的家族描画法。それは、何かをしている家族の絵を描く、というものだ。そこで困ったのは。私の、かつての父母との家族を思い浮かべたとき、共に何かをしている、というところが全く浮かばないことだった。浮かぶのは。後ろを向いて今にも出掛けていきそうな父と、そっぽを向いている母、そしてしゃがみこんでいる弟。その真ん中に、私がぽつり。そんな具合だった。何かを共にしている、という絵は描けそうにないな、と思った。だから、ありのままを描くことにした。描きながら、同時に、今の、娘との姿が思い浮かんだ。踊っている娘を、眺めている私。そんな構図。私はこちらも描いてみることにした。娘の周りには、黄色や赤や橙色といった、明るいエネルギーを表す色がオーラのように広がっており。私はそれを、外側から眺めている、といった具合。娘は鮮やかに色を持ってそこに在るのだが、私には色はなく。だから、それをできるだけありのままに描いた。一段落ついて、再び過去の家族の絵に戻る。色をつけようとして困った。色が浮かばないのだ。唯一浮かぶのは、父や母の間にぽつんと立っている自分自身のスカートの色だけ。しかもそれは、私が履いたことのない真っ赤なスカートで。ちょっと躊躇した。でも、思い浮かんだのだから描いてしまえと、描くことにする。
絵を描くのに与えられた五十分という時間は瞬く間に過ぎ。分かち合いの時間がやって来た。みんなそれぞれの絵を持っている。家族全員で自転車に乗る練習をしている風景を描いたものもあれば、バトミントンをしている絵もある。ただ歩いてゆく光景を絵にしたものもあれば、居間でそれぞればらばらに寛ぐ姿を絵にしたものもある。
絵に表れるものを、それぞれがそれぞれの口で説明してゆく。私は三番目に説明を行なうことになっていたのだが。それをする前にもう、自分の絵が、どれだけ問題ありな絵であるのかがありありと分かって、ちょっと苦笑する。
過去の、父母との姿を描いたものは。どれほど家族がばらばらで、不安定で、私がそこから寂寥を感じていたのかが、ありありと分かる絵。一方、娘との絵は、私が娘を守りたいと思っていることがありありと分かる絵。
やりながら思った。今度娘に、まず、ダンスを踊ってもらってから、絵ではなくコラージュをやってみよう、ということ。コラージュなら、私も遠慮なくできるような気がする。娘のダンスを見たらなおさら、気持ちがほぐれるような気もする。ナタリー・ロジャーズの著書にあった方法を、やってみよう。
帰り道、ひとり、ぼんやりと思う。あの時先生はどんな気持ちでゴミ箱に私の絵を棄てたのだろう。まさか子供が、それほどショックを受けるとは思わないでしたことなんだろう。まさか生涯それを引きずることになるなんて、思ってもみなかったんだろう。もういい加減私も、あそこから卒業したい。
来週は、円枠家族描画法が待っている。

「なぜ自分が特定の軌道に則って考えているのか、どんな動機から行動するのか、それに気づくことです」「あなたが条件付けが作用するどんな反応もなしに、全的に、深く、あなたの存在のこの全体性に気づいているときだけ〔可能になるの〕だと。それが自己からの本当の自由です」「私たちが悟らねばならないのは、自分が環境によって条件づけられているだけではなく、私たちが他でもないその環境だということ、自分がそれと分離したものではないということです。私たちの思考と反応は、私たちがその一部であるところの社会が私たちに強いた価値観によって、条件づけられているのです」「この全プロセスに気づくこと、意識と無意識双方のそれに気づくこと、それが瞑想です。そしてこの瞑想を通じて、欲望と葛藤をもつ自己は超越されるのです。もしも人が自己に避難所を提供する諸々の影響や価値観から自由になりたいのなら、自己理解が必要です。そしてこの自由の中にだけ、創造や真理、神、あるいはあなたがそのようなものとして呼ぶものが存在します」「問題は私たちが何を考えるかであって、他の人たちが私たちに考えてもらいたがっていることではありません」「知恵は恐怖や抑圧を通してはやってきません。それは人間関係…の中の日々の出来事の観察と理解を通じてやってくるのです」「自己理解と自分の〔思考や感情の〕全プロセスについての深い理解があるときにだけ、英知があります」「私たちは集合的にも個人的にも、自らの条件付けとそれに対する反応に気づいていなければなりません。セルフを超えた地平に出られるのは、人がその互いに矛盾した欲望欲求、その希望と恐怖もろとも、セルフの活動に十分なほど気づいているときだけです」「愛と正しく考えることだけが、真の革命、自己内部における真の革命をもたらすでしょう」

娘と共に図書館へ。図書委員をやったことがある娘だが、学校以外の図書館を利用するのは初めてだ。まず図書カードを作るのが、彼女にとって楽しみだったらしい。
しかし。私が本を選び終えて彼女のところへ行くと、彼女は一冊も本を持っていない。それどころか、不満げな顔をしている。どうしたの? 欲しい本が一冊もない。どうやって探したの? 検索システム使って探してみた。自分の手と足で、あちこち歩いて本を眺めてはみなかったの? うん。面倒くさい。いやぁ、それじゃぁ何も始まらないよ。
私は早速、手近にあった本を取って、こんなのがあるよ、と彼女に差し出す。ちょうど彼女がかわいがっているハムスターが主人公らしい。へぇ、こういう本もあるんだぁ、と彼女が覗き込む。ほらね、実際に開いてみないとさ、分からないんだよ。だって、題名とか入れても、何も出てこなかったんだもん。そりゃそうかもしれないなぁ、だって、私たちが知ってる題名なんて、たかが知れてるじゃない。そりゃそうかもしれないけど…。まずは手に取ってみることが先決だよ、こういう場所では。そうなんだ…。
そうしてさらに一時間、彼女につきあって本棚をうろうろする。二人とも、借りることができるぎりぎりの六冊まで借りて、図書館を出る。もうだいぶ日が傾き始めた。

家に戻り、私が台所仕事を始めようとすると、待ったがかかった。何、どうしたの。私が尋ねると、自分が洗い物をやるのだ、と言う。私は彼女に任せてみることにする。
しばらく放っておいて、ふと見てぎょっとした。彼女が台所のシンクに乗っかって、何やらごしごしタワシで磨いている。な、何やってんの? 私が尋ねると、油で汚れたところとか掃除してんの!と返ってきた。ママ、私がいなくなったらどうするつもり? こういうところもちゃんと掃除しなくちゃだめじゃない! あ、はい、分かりました…私は一応おとなしく返事をしておく。頭に浮かんだのは、今日授業で描いた彼女との絵。その絵の中で、私は彼女を守りたいと思うと同時に、どこかで束縛したいとも思っているのではないかというようなサインが出ていた。だから、彼女のすることにできるだけ、介入しないように試みる。彼女がしてくれることは、彼女がしたいようにさせておくことにする。といっても、まだお尻がむずむずして、口出ししたくなったりするのだが。
あぁ終わった! ママ、ご飯、それからお小遣い頂戴ね! え、ご飯って、これから作るんじゃん。ええーー、さっさと作ってよ! おなかすいた! …全く、勝手なもんだ、と思うのだが、せっかくしてくれた仕事だ、何も言わずにいよう。私はぴかぴかになった台所で、早速夕飯を作り始める。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振り合って別れる。娘は今日から火曜日まで留守だ。じじばばと旅行に行くことになっている。そして私はこの週末、撮影だ。
電車に乗っているのだろう娘から早速メールが届く。「ママ、ケガしないようにね! だめだよ、あんまり無茶しちゃ!」。そう書いてある。私の性格をよく分かっているらしい。私は苦笑しながら返事を打つ。「旅行楽しんで行ってきてね! お土産楽しみにしてるよー!」。
公園の桜が咲き始めた。この寒い中でも咲く桜。けなげな姿だ。灰色の空を背景に浮かび上がるその薄桃色の姿を、私は見上げながら思う。
さぁ今日もまた、一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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