2010年05月18日(火) |
起き上がると明るい光が窓の外広がっている。私は窓を開け外に出る。ベランダに立つと少しひんやりした空気が私を包み込む。そよそよよと流れる微風が心地よい。全体的に世界は白っぽく見えはするが、昨日よりもずっと澄んでいる。トタン屋根にちょうど陽光が射して来ており。白銀に燃える屋根。向こうの丘に立つ団地は、まだしんと静まり返っている。街路樹の葉群も、今朝は静かに佇んでおり。小さな若葉は、まだ微風に耐えられるほどの重さももたないんだろう、時折さややと小さく揺れる。 私はしゃがみこんで、ミミエデンを見つめる。暗緑色の葉が、ちょこねんとくっついている。懸命に広げられた手のひらみたいに、その葉はぴっと開いており。このまま育ってくれることを、ただひたすら祈る。 ベビーロマンティカはまた新たな蕾をつけており。だから今在る蕾は全部で四つ。そのうち二つは、だいぶ綻んできた。ぽっこりぽっこり開く花。もし味わったら、南瓜の煮つけのような、ほっくりした味なんじゃぁなかろうか。そんな気がする。ちょっと甘くて、ぽくぽくした味。 マリリン・モンローの蕾のひとつの首が、だいぶ重たげに撓ってきた。花に手を添えると、ずっしりと重い。この重さをいつも支えているのだから、それはそれはしんどいに違いない。これは支えを添えるべきか、それともこのままいっていいのか。迷うところだ。もう少し、もう少し開いたら、できるだけ早く切り花にしてやりたいと思ってはいるのだが。あと少し開かないと、それができない。もうちょっとだ、もうちょっと頑張れ。私は心の中、マリリン・モンローに声を掛ける。もう一つの蕾は相変わらず天を向いており。綻び始めた先の方を風に晒している。 ホワイトクリスマスに、新芽の気配が現れた。紅い紅い固い芽。枝と枝の間から、ちょこねんと顔を出している。これが綻び出すのはいつだろう。まだまだ先に違いない。違いないけれど、それでも気配はここに在る。それが、嬉しい。 農薬を軽く吹き付けたパスカリたちを見やる。私は一枚、一枚、葉の裏を確かめる。あのいやなざらざら感は残っていないかどうか。触って確かめる。すべての葉をそうやって確かめられたらいいのだろうけれども。パスカリはまだしも、桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の葉は細く小さめで、すべての葉をひっくり返して見届けることができない。少しでも状態がよくなってくれればいいのだけれども。 桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾は、日毎大きくなっており。まだ色も何もついていない、白い蕾だけれども。私は今朝も指の腹でその粉を拭ってやる。それしか今私にできることがない。悔しいけれど。どうかほんのちょっとでもいい、綻んでくれることを、今はただ、祈る。 玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。そろそろ水を遣る時期だろうか。それともあと一日、待った方がいいんだろうか。ラヴェンダーの葉の具合を見ながら私は考える。あまりこまめに遣りすぎて根腐れを起こしたら元も子もない。それに今は、デージーの小さな芽もこの中にたくさん在る。 デージーの芽は、相変わらず目を凝らさないと分からない程度の小さなもので。それでもちゃんと本葉をつけてきているのだから、すごいと思う。この小さな小さな体の中に、一体何を秘めているんだろう。どんなものを孕んでいるんだろう。 ふと思い出す。娘が生まれて、できることなら母乳で育てたいと思った。でも、私の乳は、娘が望むようには出ず。一ヶ月もしないうちに、母乳では全く足りない状態になってしまった。結局、一ヶ月目の検診の際、混合でいきましょう、と先生に言われることになる。でも何故だろう、言われた途端、余計に乳は出なくなった。出そう出そうと思う程に、出なくなっていった。母親失格、という言葉が、その時浮かんだ。出産前にさんざん助産婦や母から言われていた言葉だった。私の傷だらけの腕を見て、こんなことばっかりしているようじゃ母親失格です!と。そう言われ続けたんだった。その言葉がありありと、思い出された。あぁやっぱり私は母親失格なのか、と、でも、泣こうにも泣けなかったことを覚えている。粉ミルクを溶きながら、どうやったら少しでも母乳に近づけることができるんだろう、なんて、無駄なことさえ考えた。そうして自分の腕を見、何処までもこの傷は私を追いかけてくるのか、と、そう思った。 結局、三ヶ月目には娘はすべてを粉ミルクで過ごすようになり。がりがりだった体はどんどん膨らんでゆき。いつのまにかぷっくらした赤ちゃんになっていった。そういえばあの頃、私は腕を切り続けていたんだろうか。覚えていない。娘がまさに赤ん坊だった頃、私はどうしていたんだろう。それから数年後、また大きな波が来るとも知らず。 何故こんなことを今思い出すのだろう。デージーのこの小さな小さな芽を見ていると、つい、娘が赤ん坊だった頃を思い出してしまう。デージーの芽と娘の小さな芽とが、重なり合うからかもしれない。 そういえば離乳食も、私は適当だった。ちゃんと作ったという覚えがない。何でもありあわせのもので済ませていた気がする。だから、今、友人たちの、離乳食を立派に作っている話を見聞きしたりすると、偉いなぁすごいなぁと思う。同時に娘に感謝する。あんなありあわせのものでも、ちゃんと食べてくれたのだから。今確かに、多少の好き嫌いはあるものの、食べないということはあり得ない。娘は私以上の量をしっかり食べてくれる。そういう娘を見ていると、私はひどく安心する。 そんな私だからだろう。友人に問われると、子育ては適当さが大事なのかも、と応えてしまう。思いつめたら終わりだ、と思うからだ。思いつめると、何もかもが行き詰まる。悪い方悪い方へと転がり落ちていってしまう。あぁでもそれは、子育てに限ったことではない。生きているそのこと自体、思いつめると、ネガティブな方向へと転がり落ちるところがある。適度に余白を持って、その余白で時に遊び、時に寝転がり、そうやって自分を楽にしてやらないと、何もかもが行き詰まっていってしまう。そういう時ほど、体を使って深呼吸をすることが大切になってきたりする。実感を伴った感覚が、自分を助けてくれる。深呼吸を考えた人って、実はすごい人だと思う。 校庭を眺めながら、私は足跡をひとつひとつ辿ってゆく。名もなき足跡たち。でもそれは、間違いなくそこに誰かが生きていた、その証で。唯一無二の標で。だからこんなにも、いとおしい。 部屋に戻り、顔を洗い、お湯を沸かす。生姜茶を入れ、椅子に座り、開け放した窓から外を見やる。さっきよりずっと明るい空が、そこには広がっている。
ママ、私、このドラマの主人公みたくなりたい。へ? どういう意味? こういう出会い、してみたーいっ! はっはっは、何それ。何がいいと思うの? だってさぁ、ちょっとずつちょっとずつ近づいていって、お互い好きだってことが分かって、恋人になって。ちゃんと好きだとか言い合うし、そういうところっていいと思わない? あぁ、ちゃんと好きだとか何だとか伝え合うところがいいってこと? うん、言わなくちゃ分からないじゃん。そうだねぇ、うん、それはいいかもしれないね。今、私、新しく好きな人いるんだよねー。あら、そうなの? でもさぁ、なんかちょっと、その人、冷たいっていうわけじゃないんだけど、クールなんだよ。へぇ、そういうのが好みなんだ。今まで好きになった人みたいに、一緒に遊ぶっていう感じじゃないんだよなぁ。ふぅん、そうなんだ。なんか、同じ教室にいても、ひとりですっとそこにいる、みたいな、そんな感じ。へぇぇ、そういうのがいいの? いや、なんかかっこいいから、好きになったんだけど。ははは。まぁ、片思いのときが一番楽しいっていうから、思い切りどきどきを楽しんだら? えっ、そうなの? うーん、ママはよくわかんないけど、一般的には、片思いのときが一番楽しいって言うらしいよ。変なの、両思いになった方がいいに決まってるじゃん! ははは。じゃぁ、両思いになれるように女磨きしてちょうだい。えー、何磨くの? たとえば靴磨いたり顔磨いたり。何それ。真面目に言ってんのに! ははは。まぁまぁ。ってかさぁ、ママ、いい加減恋したら? はい? 何突然言ってんの。前から言ってんじゃん。いい加減恋しなさいよ。別にぃ、今出会いもないから恋もない。女が廃るよ、女がっ。…、あなたに言われたくない。わーい、女が廃るんだよっ、早く恋しなよっ! …ほっといて! わはははは。
久しぶりに穴ぼこにあった。穴ぼこの周囲には風が静かに流れていた。でも、地べたにはまだ、草も何もなく。私は土を握り締めながら、思う。耕し方が足りないんだろうか。それとも他に、何か原因があるんだろうか。まだ穴ぼこの中に、何か埋もれているものがあるんだろうか。 穴ぼこはしんしんとそこに在り。私はだからしばらくその傍らに座っていた。目を閉じて耳を澄ますと、風の音が聴こえてきそうなほど、静かな時間だった。それは長い年月を経て生じてくる、そんな静けさだった。 先日本棚を整理した折、たくさんの、アダルトチルドレンに関する本が出てきた。もう二十年、三十年前に出版された本ばかり。その頃私は一生懸命こうした著書を読んで、自分を辿ろうとしていたんだと思う。でも、怒ることを否定してきた私には、それを辿ってみることしかできなかった。そうして年月を経て、今ようやく怒るだけ怒ることができて、その先にこの静けさが在った。その当時では思ってもみないことだった。 この静けさのお陰で、私はまたここから始めることができる。そう、思う。
ママ、うちって本いっぱいあるよね。そうかな。どうしてこんなにいっぱいあるの? うーん、それはママが本が好きだから。ママ、どうして本が好きなの? うーん、本を読むと、自分の知らなかった世界がそこに在って、読むことで世界がぐんと広がるから。ふーん、世界が広がるとどうなるの? うーん、自分が体験してみたいことが増えるよ。知ってることと体験することって違うの? それは違うよ。どう違うの? 知ってるっていうのは、頭で知ってるだけでしょう。でも体験するっていうのは、自分の身をもって知るってことだから、実感を伴うんだよ。実感って何? 実感? そうだなぁ、うーん、たとえばあなたが勉強してるとき、今までできなかった問題の答が突然ひらめくときがあるでしょ、そういう時、やったー!って思わない? 思う。やったー!って思ったことって、その後もちゃんと覚えてるでしょう? まぁね、うん。それとか、水泳でもいいや、それまでバタフライ泳げなかったのに、練習して泳げるようになるとさ、もう体が勝手に覚えているでしょう? うんうん。頭だけで理解したって、体は動かないんだよね。ふぅん、そうなの? うん、そうだと思うよ。頭と体両方で知って動けることって大事なんだよ。ふーん。でなけりゃ頭でっかちになっちゃう。頭でっかちって? あれ? 頭でっかちとか言わない? あんまり言わない。そうなんだ、ママの頃、そういう言葉、よく使ったよ。頭でっかちってさ、はっきり言えば悪口でさ、頭ばっかりよくって行動が伴ってない人のことを頭でっかちって言うんだよ。へぇぇ、そうなんだ。でもね、体験できることも、やっぱり限られているからさ、だから、ママは本を読んで、いろいろ知りたいと思うんだよね。知って、できることなら体験したいって。ふぅぅぅぅん。ママって変わってる! 何が変わってるの? それじゃ、今に本に埋もれて潰れちゃうよっ。ははははは、それもいいかも。えー、私、やだー! ははははは。
じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。娘の手のひらの上には今朝はミルクが乗っており。小さな短い耳をつんと立てて、こちらを見つめている。だから私は彼女の頭をこにょこにょと撫でてやる。娘は外まで出てきて、見送りのダンスなんて言いながら、踊っている。どう見てもそれは、ドリフのダンスの延長だと、母は思う。 自転車に跨り、坂道を下る。信号を渡り、公園へ。茂る緑の匂いが、入り口の辺りにまで漂ってくるようになった。深く息を吸うと、胸いっぱいに緑の匂いが広がる。池の縁に立つと、今ちょうど陽光が、木々の間から射し込んでくるところで。池の水面がきらきらと輝く。 大通りを渡り、高架下を潜って埋立地へ。埋立地も今日は風が緩く。私はそのまま自転車を走らせる。プラタナスの並木道、若葉がちらちらと、陽光に輝く。 さぁ今日も一日が始まる。 |
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