見つめる日々

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2010年05月19日(水) 
起き上がり、窓を開ける。明るい空が広がっている。天気予報では今日は崩れるという話だったが、大丈夫なんだろうか。空を見上げながら思う。でも、今見上げる空はきれいに晴れており。うっすらとした雲がところどころにかかってはいるものの、それでも明るく。風が少し強く流れている。その風に靡くようにして、街路樹の葉々がざわざわわと揺れている。向こうの丘の上の団地はまだ眠りの中のようで、しんしんとそこに在る。真下の通りを行き交う人も車もまだなく。でもきっとこの街のどこかで、私のように今起きて空を見上げている人はいるんだろう。そんな気がする。
振り向くと、マリリン・モンローがぱっくりと口を開いており。思わず歓声を上げる。それは今まさに咲いているところで。私は部屋に戻り、植木鋏を持って出る。そうして二つのマリリン・モンローの花を、それぞれ切り花にする。鼻を近づけると、甘くて、けれど涼やかな香りが鼻腔をくすぐってくる。この香りを嗅ぐのもどのくらいぶりだろう。二輪いっぺんに花瓶に生けるのもいいけれど、ちょっと迷って、それぞれ一輪挿しに挿して飾ることに決める。こうして開いてみると、クリーム色にうっすらとオレンジの水彩絵の具を混ぜたような、そんな色合いをしている。冬に咲いたものよりずっと濃い色だ。これを母に届けたかった、と思う。せめて写真だけでも、とカメラを握り、シャッターを押す。最近パソコンを始めた母に、写真付きのメールを送ってみるのもいいかもしれない。
改めて、マリリン・モンローの樹を眺める。きっと疲れただろう。花を咲かせるために、懸命にそのエネルギーを使ったろう。ありがとうね、私は心の中声を掛ける。強い風に揺れるマリリン・モンローは、黙ってこちらを見つめている。本当にありがとうね。でも、これで終わりじゃぁないからね。そう言って、私はちょっと笑う。
ミミエデンの新芽はちゃんと開いてきており。濃い緑色の、ちょっととげとげしたような葉の形。決してかわいらしい葉ではない。かわいらしくなかろうと何だろうと、それでもこうやって芽吹いてきてくれることに私は感謝する。
ベビーロマンティカの葉というのは、明るい、萌黄色に近い緑色をしていて、形も丸くかわいらしい。その葉が風に揺れている。蕾たちも風に微かに揺れている。そのうちの一つがだいぶ開いてきた。ぽっくりぽっくり。明日には切り花にしてやった方がいいかもしれない。その開いてきた花はちょうど葉の陰になっていて、だからこそ早く切ってやりたいと思う。
ホワイトクリスマスは新芽の気配を湛えながら、しんしんとそこに在る。他の樹たちにどういう動きがあっても動じない、そんな気配が漂っている。濃緑色の葉は、少し埃に塗れているようで。私は指の腹でそっと、一枚一枚、拭ってやる。
桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾も、ずいぶん膨らんできた。ほんのり色づき始めている。微かに分かるその色味。本当にそれは桃色なのだ。昔ながらの桃色。花は小さくて、本当にあなたは咲いているの?と尋ねたくなるほど小ぶりで、でも、それが、その桃色にちょうどお似合いで。もしこの蕾が粉に塗れて咲くのだとしても、それでも私は楽しみにしている。
農薬を撒いた後のパスカリたちは、じっと黙っている。何の変化もない。私は葉の裏を撫でてみる。今朝は指先に粉のようなものがつくことはなく。とりあえず収まったんだろうか。それとも、今たまたまつかないだけなんだろうか。それは分からないけれども。続けて見守っていこうと思う。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。だいぶ元気になってきたラヴェンダー。私は、張りの戻ってきた葉を、そっと撫でてみる。くてんとなっていた時よりもずっと、弾力が戻ってきている。よかった。もう一方のラヴェンダーは、ちょっと斜めに伸びてはいるけれども、でも、変わらず元気にしていてくれる。ありがたいことだ。そうして土の方に目を移し、デージーの芽をひとつずつ見つめる。だいぶ大きく育ってきた。これなら少し離れた場所からでも、凝視すればちゃんと芽だと分かるだろう。ラヴェンダーよりもちょっと濃い目の色の葉たち。本葉をひろげてきたものがたくさん。こんな風の強い日でも、大丈夫なんだろうか。いや、大丈夫なんだろう。野に咲く花はみんな、そうやって生きている。
校庭の方を見やる。ちょうど埋立地の高層ビル群の向こうから朝日が昇ってきたところで。強い陽射しが真っ直ぐこちらの目を射る。東の空では雲がぐんぐん流れており。空はくるくると表情を変えている。
校庭に残る足跡は、そんな陽光の下、浮かび上がっており。ふと目を凝らす。あの、ジャングルジムの前に描かれているのは何だろう。確かに何かが描かれている。あぁ、ドラえもんだ。私は思わず笑ってしまう。誰が描いたのか知れないが、確かにドラえもんらしきものがそこに描かれている。ちょっと丸い顔が歪んで、横に大きいドラえもんだ。そういえばこんなお絵描きを見つけたのは、初めてに近いかもしれない。私はしばらくその絵に見入る。そういえば昔は、チョークを使ってあちこちのアスファルトの道路にいたずら描きをしたものだった。土の道路には指や枝で絵を描いた。みんなそうやって、遊んでいた。今の子供たちで、道路に何かを描いているところなど、そういえば見たことが殆どない。ああした遊びは、なくなってしまったんだろうか。車が通って危険だからと、遮られてしまうようになったんだろうか。なんだかちょっと、もったいない気がする。
そういえば娘は、小さい頃、トトロが好きだった。私が模造紙を出して、お絵描きをしようと誘うと、必ず、トトロ、トトロ、とねだった。私は見よう見まねでトトロを幾つも描いた。アンパンマンなどといったキャラクターより、もしかしたら彼女は、トトロのあの丸いあったかい体が好きだったのかもしれない。そんな娘も、考えてみれば、道路にお絵描きをするということを、あまりしてこなかった。何度かそれをしたことはあったが、近所の人に咎められて、やむなく諦めた。そんなに、道路にお絵描きするのはいけないことだったんだろうか。今思ってもちょっと不思議に思う。
砂場に指で絵を描いて遊んだこともあった。でも、その砂場自体、今では数が本当に少なくて。そして、近所の砂場は、時間が区切られていた。朝の九時から夕方の五時まで。それ以外の時間には網がかけられる、といった具合で。最近海の近くにまた公園はできたが、そこにも砂場はなかったっけ。何故砂場を作らないんだろう。あれほど楽しい場所はないだろうに。危険だから? その危険を運んでくる人は誰れ? 言ってしまえばそれはみんな、大人と呼ばれる人たちじゃぁないのか。その大人は、さんざん砂場にお世話になったんじゃぁないんだろうか。私はそんなことを思い巡らしながら、ぼんやり校庭を見やる。
最近思う。ひとりで過ごす時間の大切さ、を。それは、大人も子供も同じように大切なんじゃなかろうか、と思う。考えてみれば子供の頃、みんなで野原に集まり、めいめいが花輪を作って遊んだことがよくあった。あの時、一心に花を編んでいる最中というのは、みんながみんな、ひとりだった。一緒にその場所に居ることは居るけれども、みながみんな、ひとりに集中していた。ああいう時間って実は、とても貴重なものなんじゃぁないか、と、最近特にそう思う。
それだから、というわけでもないのだが、娘には、できるだけひとりで過ごせる時間を作ってやりたいと思うようになった。もちろん、家の中に私は居り、ちょっとドアを開ければ私はそこに在るわけなのだが、それでも、ひとりで何かに没頭する時間、というのを、彼女に作ってやりたい、とそう思うのだ。そろそろ彼女も難しい年頃になる。ひとりで考えて、ひとりで答を出さなければならないことも多々出てくるだろう。もちろん必要になれば私はそこに在るわけで。その時は私に声を掛ければいい。彼女が声を掛けやすい態勢で、私はここに在ればいい。
ママ、これ、何? あ。何? それはママの、昔の日記帳だよ。そうなんだ。ママ、こんなにいっぱい書いてたの? そうだねぇ、もっといっぱいあるよ。押入れの中に入ってる。どうしてこんなにいっぱい書くの? うーん、どうしてっていうか、書きたいから書いてたの。どうして書きたくなるの? そうだなぁ、書くとさ、すっきりするんだよ。それに、気持ちも整理できるし。どうして書くとすっきりするの? うーん、えぇっとねぇ、ほら、もやもやした気持ちってあるでしょう? ああいうのを、どうにかこうにか言葉に置き換えられると、あぁそうか!って納得できるときあるでしょう? まぁ、あるっていえばあるかも。そういう感じかなぁ。ママは、いろんなこと悩んだり考えたりするとき、必ず何か、書いて整理してた。吐き出してた、って感じかな。ふーん。こういうのって読み返すの? あ、全然読み返さない。どうして読み返さないの? うーん、なんでだろう、まだ、読み返す時期じゃぁないのかな。じゃぁどうしてとっておくの? ははは、それは、下手に棄てると恥ずかしいからかも。それに、自分の分身みたいなところがあるから、棄てられないっていうのもあると思う。ふーん。あなたも日記、書いてみる? え、やだ。あら、そうなの? まだ、いい。そっか。まぁ書きたくなったらそのとき書き始めればいいんじゃない? んー、私、踊ったり歌ったりする方が好きだな。あぁ、そうだね、あなたはそういうところがあるかも。なんか悩んだりいやなことあったりするとき、ぱーっと踊ったり歌ったりすると、すっきりするよ。ああ、それはいいよね。ママには、そういう術がなかったから。ママは踊ったりするの、好きじゃなかったからさ。もったいないなー、踊ればいいのに! ははは。まぁ、人それぞれの形があるってことだよ。
それにしても。私は、娘が返してくれた日記帳をぱらぱらと捲る。よくもまぁこんなにも書いたものだと我ながら思う。気づいた時にはもう、私は日記帳をつけるようになっていた。さすがに小学生の頃の日記帳は今もう残ってはいないが、でも、この家の中、押入れの奥には、中学生の頃からの日記帳が、ダンボールにごっそり、しまい込まれている。読み返すことなど、はっきりいってない。ないのだが、棄てられない。でも。死ぬ前には、すべて処分しておきたいと、そう思っている。
娘に言った通り、これは私の分身でもある。だからこそ自分の手で処分したい。そう思う。

ママ、じゃぁ行って来るね! はいはい、行ってらっしゃい。お弁当、ちゃんと作っておいてね。分かった分かった。じゃぁ気をつけてね。はーい!
今日から朝練が始まる。週に二日。七時二十分には家を出る娘。結局彼女はバスケットを選んだのだが、さぁて、どうなることやら。
でもちょっと羨ましい。ピアノのために、球技をできないできた私にとって、バスケットというのは憧れのスポーツの一つだった。あの、滑らかにシュートする姿は、私にとって羨望の的だった。それを今、娘がやろうとしている。思い切りやってくればいい、そう思う。
同時に、彼女に圧し掛かるのは、多分、人間関係だろう。もしそこで躓くことがあるなら、その時私がサポートしてやればいい。あとはただ見守るのみ。

二杯目のお茶を入れる。何となく、レモンティーを作ってみる。メープルシロップを少し入れて、レモン果汁を入れて。ほんのり甘いレモンティーのできあがり。
そのお茶を飲みながら、お弁当を作る。キャベツとベーコンの炒め物。玉子焼き。苺に鮭握り。本当に簡単に出来上がってしまった。こんなんでいいのか、と思うのだが、それ以上の工夫も、私にはできない。諦めることにする。
ついでに、夜のお味噌汁も作っておくことにする。娘の好きな玉葱の味噌汁。これがあれば、塾から帰ってきておなかが空いていても、何とかなるだろう。

「何かを失ったからといって、けっして絶望してはいけません、それが人間であれ、何か一つの喜びであれ、幸福であれ。すべてまたいっそうすばらしく訪れてくるものです。落ちるべきものは落ちるのです。われわれに属するものは、われわれのところにとどまります。すべてのことは法則にしたがって起こるのです。それは私たちの認識よりもっと大きく、私たちがそれに離反するようでも、それは見かけにすぎないのです。ひとは自分自身の内部に生き、生全体に思いをひそめねばなりません。生の幾百万と知れぬ可能性のすべてに、広さに、未来に。そういうものと向き合うとき、過ぎ去ったもの、失ったものは何一つないはずです。」(リルケ)

鍵を閉め、部屋を出る。さっきまであれほど燦々と降り注いでいた光が、雲に遮られている。見上げれば、空には雲がかかっており。それは灰色の雲で。
私は自転車に跨って、坂を下る。信号を渡り、公園の前へ。ちょうど手を繋いだ父娘が保育園へ行くところのようで。ゆっくり娘の歩調に合わせて歩く父親の姿に、私は目を細める。
大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。風が強い。びゅうびゅうと唸っている。その風を真横に受けながら、私は走り続ける。
さぁ今日も一日が始まる。信号が青に変わった。私は勢いよく、横断歩道を渡ってゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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