2010年05月20日(木) |
少し体が重い。そう感じながら起き上がる。薄暗い部屋の中。窓を開けると、外は霧雨。粉のような雨がちらちらと舞っている。そう、降るというより舞うという言葉の方が似合う、そんな細かな細かな雨だ。微かに流れる風に沿って舞っている。 街路樹の緑にも、細かな雨粒がくっついている。葉の毛羽に沿ってくっついている雨は、いずれ雫になって落ちてゆく。街全体がしっとりと濡れている今朝の景色。私はゆっくりと、息を吸い込む。 しゃがみこんでミミエデンを見やる。ミミエデンは小さいながらも葉を広げており。先日まで在ったミミエデンの樹には、とうとうこうした葉を広げさせてやる機会がなかった。そのことを思い出す。思い出すから余計に、この枝にはせめて、たっぷりと生きてほしい、そう願わずにはいられなくなる。ゆっくりでいい、ゆっくりでいいから、たっぷりと生きて欲しい、そう思う。 昨日二つの大きな花を切ってやった後のマリリン・モンローは、ようやく荷物を降ろして、ほっとしたかのような雰囲気が漂っている。無事に咲かすことができたよ、無事に花を開かせることができたよ、と、それが安堵の溜息になって漏れ出ている、そんな感じだ。本当にお疲れ様。今その花たちは、揃ってテーブルの上、飾られている。鼻を近づけると、あのほんのり甘く、同時に涼やかな香りが漂ってくる。私はその匂いを嗅ぐたび、ほっとする。 ベビーロマンティカのひとつの花も、そろそろ切り花にしてやっていいかもしれない。まだ他にも蕾は残っている。今日帰ってきたら切ってやろう、私は心の中そう決める。明るい緑色の葉たちにも、今は雨粒が霧のように降ってきて、僅かに濡れている。艶々とした葉が、雨粒のせいでさらに輝いて見える。 ホワイトクリスマスは、並んだプランターの、一番端っこに植わっており。そのためか、一番雨に濡れている。その濃くて暗い緑色の葉たちが、いつもよりさらに、ずっしりとした重量感をもってみえるのは、濡れているせいなんだろう。私は葉を指で拭ってみる。肉厚の葉は、私の指の間でぶるんと震える。その瞬間、ぽろん、ぽろんと雨粒が落ちてゆく。きれいな澄んだ音色。 桃色のぼんぼりのような花を咲かせる樹。こちらにはあまり今雨はかかっていないようで。乾いたままの葉、乾いたままの蕾。私はその病に冒された蕾をそっと拭う。粉が土に落ちないよう、気をつけて。拭ってやると、一瞬でしかないのかもしれないが、それでも粉が消えて、姿が露になる。うっすらと桃色に染まり始めた蕾。咲いたらさぞかわいらしい姿になるんだろうに。このまま無事に咲いてくれるといい。咲いたらすぐさま切らなければならないとしても、それでも。 植えっぱなしのイフェイオンたちにも、雨は平等に降っており。幾つもの雨粒を湛え、疲れきった緑の葉たちが沈黙している。ほっと一息ついているかのようだ。ムスカリたちの葉はもう枯れてしまった。また来年まで、しばしの別れ。 玄関に回って、ラヴェンダーのプランターを見やる。ラヴェンダーたちは揃って元気にしていてくれている。よかった。あの、葉が萎れてきたときのラヴェンダーは、悲しかった。このまま枯れてしまったらどうしようかと思っていた。でも、結局何がいけなかったんだろう。何がこの子に足りていなかったんだろう。私は首を傾げる。原因がよく分からない。分からないまま、元気になった今の姿を見、私はほっとしている。なんか私ってちょっとずるいかも、と思った。結局、ラヴェンダーたちにすべて任せてしまった。私が手を出すところはほとんどなかった。水を遣る、という行為しか、私にはできなかった。申し訳ないと改めて思う。 デージーの芽は、ようやく娘にも識別できるほどに大きくなり。へぇ、朝顔の芽とかとは全然違うんだね!と言われてしまった。そりゃ違うだろ、と言いかけて、私は口を噤んだ。娘にとって、薔薇やイフェイオン、ラナンキュラスなどといった球根類はよく見てきたけれども、種から私が育てているところは、確かに殆ど見ていないのだ。そのことを思い出した。ほら、これが本葉なんだよ。ママ、本葉ってこんなに小さいんだっけ? うーん、種の種類にもよるんだと思うよ。ひとつずつ違うからね。なんで種一つ違うだけで、こんなに芽まで違うの? えー、同じだったら困るじゃない。どうして? 同じだったら、誰が誰だか分からなくなっちゃうじゃない。ふーん。人と同じだね。何が? 人も、ひとりひとり顔が違う、姿が違う、何もかも違う。ちゃんとその人が誰なのか、分かるように、神様がひとりひとり違うように作ったんだね。ふーん、ママって変なこと考えるね。へ? みんなさぁ、人と違うのが怖いとか恥ずかしいとか思うんだよ、普通は。ははは、まぁね、そうだよね、普通は。クラスの子でもさ、ひとりだけ違うことすると、すぐハブにされたりするし、ひとりだけ違う格好してると、陰口叩かれるし。たまったもんじゃないよ。うんうん、ママの時もそうだったよ。そうなの? うん、ママも、しょっちゅうハブにされたり、陰口叩かれたりしたよ。えー、そういう時、どうしてた? 黙って放っといてた。悔しくてこっそり泣く時もあったけどね。へぇぇ、ママでも泣く時あったんだ! あったよぉ。ママ、泣き虫だったんだよ、小学生の頃とか。えー、そうは見えない。ははは。でもさ、陰口なんて、どんなに普通にしてたって言われるときは言われるし、ハブにされるときはされるし。だから、いちいち気にしてたら、心がもたないからね。自分が間違ってないと思うなら、しゃんとしてればいい。そういうのって強いって言うんだよね。ははは。よくそう言うよね。でも、強いとか弱いとか、そんなの関係ないよ。自分にとってそれが間違っていないなら、しゃんとしてればいい。それだけのこと。ふーん。 人づてにその知らせが届いた。その人が、今、とある活動を始めたのだと。人づてに、その知らせが舞い込んできた。だから私はその人の活動がどんなものかを知ろうと、辿ってみた。するとそこには、私が作ったものが、その人の名前で上がっていた。 ぽっかりと、心に穴があいた。呆然とした、というのともまた違う。ぽっかり、ぽっかりと、心に穴があいたのを、私は感じた。 間違いなく、それは私が作ったもので。でも、そこに付されているのは、その人の名前であり。 私は、もう、辿るのをやめた。 ようやくその人が、活動を始めたというから、だから辿ってみようと思った。ようやくそういう気力が沸いてきたのだったら、応援したいと思っていた。ついさっきまで私はそう思っていた。でも。 でも、これは何なんだろう。 私は、とりあえず煙草を吸うことにした。煙草を深く吸い込んで、天井に向かって思い切り吐いた。でも、私の胸の中に巣食ったもやもやは、ちっとも消えてなくならなかった。それどころか、濃くなるばかりだった。 だから私は、自分の中に尋ねてみた。見つめてみた。 悲しい、とも違う。悔しい、とも違う。じゃぁ何なんだろう、これは。私の中にもやもやと、充満するこのものは、何なんだろう。私はじっと、それを見つめた。 あぁ、そうか、私は虚しいのだ、と気づいた。そう、虚しい。虚しいのだ。 私の作ったもの。それは、間違いなく私が作ったもの。音源も、私が奏でたままのものが使われている。当然だ、私はこれを楽譜化しなかった。おかしな言い方かもしれないが、もし楽譜化していたとしても、全く同じように再現できるものではなかった。 私が作った音源に、その人の弦楽器の音が重ねられて、それはネット上にアップされていた。作曲した者の名前は、その人になって。 そう、私は虚しいのだ。たまらなく虚しいのだ。こんなことをして、何になるというのだろう。一体何がしたいんだろう。そう思った。 虚しい、ということが分かって、私は困った。この気持ち、どう処理したらいいんだろう。そう思った。この湧き出る思いを処理する術が、今、見当たらない。 泣いたり喚いたりできれば、気持ちも少しは晴れるのかもしれないが。全くそういう気が起こらない。虚しいという以外に、何も起こらない。困った、どうしよう。 たとえば、その人に連絡して取り下げてもらうこともできるだろう。抗議することもできるんだろう。でも。 なんだろう、そういう気持ちさえ、沸いてこない。私はすっかり、虚しいに呑みこまれてしまっている。さて、どうしよう。私は頭を抱えた。そして、気づいた。まず、この気持ちの置き場所を考えよう。 私は自分の内奥の感覚に意識を集中した。この気持ちの置き場所は何処だろう。今私にとって一番心地いい、この思いの置き場所は、一体何処? 最初に、穴ぼこが浮かんだ。穴ぼこの中に落とし込んでしまおうか。一瞬そう思った。でも、それはできない。何故か、それはできないと思った。穴ぼこにとってそれは負担すぎる。すると次に、「サミシイ」が浮かんだ。そして。 あぁ、「サミシイ」の砂丘の端っこに、これを埋めさせてもらおう。そう思った。 「サミシイ」は、何も言わず、私を見守っていた。私がしようとすることに、何一つ口を挟むことなく、ただ黙って、私に寄り添っていた。私は、砂丘の一番奥、一番端っこに、だからその虚しいを埋めた。 「サミシイ」と一緒に砂丘の、海が見えるところに座り、しばし海を眺めた。すると、さっきまであったどっぷり呑みこまれているという感覚が、すっと薄れてきた。そして、しゅるしゅるとそれは小さくなり。やがて、虚しいは、私の一部になった。 あぁ、よかった、そう思った。私はまた来るねと挨拶し、「サミシイ」に手を振った。「サミシイ」は小さく笑って、こちらを見ていた。 私はもう二度と、その人に連絡を取ることはないだろう。私から連絡を取ることはもう二度とない。走馬灯のように、私の脳裏、その人との時間が駆け巡っていた。共にいた時間は、でももう、過去のものだった。 さようなら。私は小さく声に出して言ってみた。さようなら、さようなら、さようなら。 それで、終わりだった。
友人から電話が掛かってくる。友人が思い出したように言う。ねぇさん、娘が言ってたよ。何を? 私はパパがいなくても生きていけるけど、ママがいないと困るって。わはははは、そうなの? うん、そう言ってた。そんなこと言ってたんだぁ、驚きだなぁ。だからさぁ、ねぇさん、もうちょっと自信持っていいよ。自信? うん、頑張ってるよ、ほんと、だからさ、自信持っていいんだよ、ねぇさんは。いやぁ、それはなぁ、難しいよなぁ。気持ちは分からないではないけどさぁ、でも、今を精一杯頑張ってるじゃん、できること、できないこと、ちゃんと見分けて、頑張ってると思うよ。それは、ちゃんと娘にも伝わってるんだからさ。うーん、そうかなぁ、頑張ってるのかなぁ。うーん。
校庭にできた幾つもの水溜り。子供らの足跡は、雨に消えてしまったんだろうか、昨日在ったドラえもんの落書きも、もうそこには残っていない。 部屋に戻り、お湯を沸かす。生姜茶を入れていると、ゴロがもそもそと小屋から這い出してくる。おはようゴロ。私は声を掛ける。鼻をひくひくさせながら、こちらを見上げるゴロ。私は手のひらに乗せてやる。それにしてもゴロはずいぶん大きくなった。ミルクのような肥満体じゃぁなく、がっしりとしているが、でも、もうココアより完全に大きい。その頭をちょこちょこと指で撫でてやる。その瞬間、いやーな予感がした。ゴロを籠に戻し手のひらを見ると、そこには小さなうんちがあった。やっぱり。やれれた。
じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。玄関を出ると、世界全体がけぶって見える。雨はやはり、降るというより、舞っている。 バスに乗り、駅へ。バス停からさらに歩く。海と川とが繋がる場所に、今は鳥たちの姿はなく。私はとことこと歩き続ける。 埋立地に立つ高層ビルの、てっぺんはみな、雲の中。あの雲の中に立ったら、どういう景色が見られるんだろう。どんな世界が広がっているのだろう。私は立ち止まり、見上げながら、そんなことを思う。 さぁ、切り替えていかないと。今日という一日が、始まってゆく。 |
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