見つめる日々

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2010年05月24日(月) 
寝苦しく何度も夜中に目が覚めたせいか、瞼が何となく重たい。寝具を跳ね除けて起き上がると、外は薄暗い。窓を開け外に出る。雨。真っ直ぐに降りつける、雨。
アスファルトもトタン屋根もみんな、ぐっしょりと濡れている。黒光りするその色味を、私は何となしに眺める。そんな中、新緑の色味だけがいきいきと浮かび上がっている。
しゃがみこんで、ミミエデンを見やる。また新しい芽の気配がそこに在る。赤く染まったその固い固い新芽。どのくらいで芽吹くだろう。またちゃんと開いてくれるだろうか。これから雨が続く季節。病に冒されたりしなければいいのだけれども。
ベビーロマンティカは花ももうない。今テーブルに飾ってある二輪の花でとりあえず終わりだ。明るい緑色の葉が、微かに雨に濡れながら茂っている。これまで本当にご苦労様。お疲れ様。しばらく休むといい。そうしてまた、時期が来たら花を咲かせて欲しい。そう思う。
マリリン・モンローは、枝葉を広げながらそこに在る。マリリン・モンローの枝に手を伸ばし、途端に引っ込める。棘が刺さったのだ。指の先から小さく血が滲む。マリリン・モンローは棘がとても多い。しかもしれは鋭く尖っている。多分私が今育てている中で、一番棘が多いと思う。ふと想像する。マリリン・モンローはそんなにも鎧を被っていたんだろうか、と。私はマリリン・モンローという人をスクリーンの中でしか知らないから、全く想像するしかないのだが。でもきっと、とてもとても傷つきやすい人だったのではないかと思う。
ホワイトクリスマスは濡れた葉をてらてらさせながらそこに在る。葉数はとても少ないけれど、滲み出るこの存在感。雨に濡れた姿はますますその輪郭を濃くし。けれど決して目立つ姿ではなく。ただしんしんと、そこに、在る。
新芽を出してきたパスカリたち。ようやく新芽を出すエネルギーが復活してくれたんだろうか。私はちょっと嬉しくなる。指先でそっと、その新芽に触れてみる。紅い縁をもった濃い緑色の新芽。やわらかく、ちょっと力を入れたら葉が折れてしまいそうな気がする。私はそっと指を離す。
桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹。その蕾は徐々に徐々にではあるけれども確実に膨らんできており。私は今朝もその蕾についた粉を丹念に拭う。無事に少しでも開いてくれたら、もうそれで十分。祈るようにそう思いながら。
挿し木をしている小さなプランターの中、幾つかの枝から新芽が伸びている。友人から貰って挿したパスカリの枝も、今のところ無事に育っている。このまま根付いてくれたらいいのだけれども。まだまだ油断はならない。
玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。ラヴェンダーは二本とも元気に背を伸ばしている。もちろん、そのうちの一本は、斜めに伸びてはいるのだが、でも、それでも葉が瑞々しく伸びている。冬に挿した時の背丈から、三倍ほどは伸びている。だからこそ重いのだ、支えきれないほど重くて、斜めになるのだ。それはとても自然なこと。そういえば母の庭ではもう、ラヴェンダーが美しく咲き誇っていた。両手を広げても余るほどのラヴェンダーの茂み一面から、花が噴き出して、微風に揺れていた。あれほどとはいわないけれども、いつか、この子たちをもっと増やして、さやさやと風に揺れるほど増やして、一斉に咲かせてみたい。そう思う。いつのことになるのやら、わからないけれども。
デージーはだいぶはっきりと芽の様子がわかるようになってきており。細っこくて頼りない芽だけれども、確かにそれは根を伸ばしてちゃんと立っており。ふと、娘が歩行器で動き始めたときのことを思う。歩行器で走れるような場所ははっきりいってその当時私が住んでいた部屋の中にはなかった。でも、私には歩行器の思い出があって。そう、私は歩行器でよく遊んだ。足でとーんと床を蹴って滑る、それがとてもとても楽しかったらしく、私は家具にぶつかり壁にぶつかりながらも、何度でも床を蹴って滑ることを繰り返して育った。娘は、狭い部屋ゆえ、床を蹴るということはできなかったものの、床に足をつけて、てこてこと歩いてみるような仕草を繰り返すのを見るのが、私はたまらなく好きだった。この子の足がそうやって、地べたについている、それを実感するのが、たまらなかった。そのかいあってなのかわからないが、娘は結構早く歩き始めた。歩き始めると、少し高いところにあったちり紙を空になるまで引っ張り出してみたり、当時一緒に住んでいた猫たちに頭突きしてみたり、いろいろやってくれた。何故だろう、デージーを見ていると、本当に、そうした懐かしいことをひとつひとつ思い出す。私が記憶の隅に忘れていたいろいろな思い出が浮かんでくる。
校庭を見やれば、幾つもの水溜り。埋立地の高層ビル群のてっぺんの方は、すっかり雨雲の中に隠れており。今日は一日雨が降り続くのだろう。私は見上げながら、街景をぼんやり眺めている。

友人が話し出す。自分が病気になるなんて、思ってもみなかった。自分だけはそうはならない、と思い込んでいたから。だからずっと、周りに何を言われようと自分は病気なんかじゃないって否定し続けてた。でも。歩いている実感や生きている実感、そもそもこの体の実感が失われていって、何も自分でできなくなっていって。あちこちの病院を訪ねて回った。ただの貧血でしょうって言われたり、ただの眩暈でしょうって言われたり、それはあなたの性格でしょうって言われたり。あっちこっちで様々なこと言われ続けて。でも、どうにも納得ができなかった。そうして二年経とうとしていた頃、それは離人感というものですよって説明を受けて、初めて、納得できた。
それから幾つも薬を飲んで、でも、飲むのにも罪悪感が伴うものなんだね。知らなかった。こんなものに頼って何になるんだろう、とか、人に見られると恥ずかしいとか、いろんな思いが交叉した。だからいつでも人に隠れて薬を飲んでた。それから、私はパニックになると、手を握る癖があって。爪を伸ばして手をぎゅって握り締めると、爪が食い込んで、血が滲んでくるんだよね。その血を見ると、ようやく安心した。安堵した。ああ、私の血だ、って。大丈夫、私はまだ生きてるんだ、って。血を見てやっと安心できた。だから、人から見えないところを、私はあちこち傷つけて、血を出して、そうやって自分を落ち着けて、なんとか社会生活を営んでた。
薬を飲み始めて、十三年が経つの。最近ようやく、常時飲むのは一種類の薬だけで大丈夫になってきた。それでもやっぱり、人前で飲むことはできないから、いつもポケットに入れてるんだ。
いまだに電車に乗るのが怖いの。電車に乗るときは必ず一番後ろに乗る。車掌さんがいるでしょう? 何かあったときはいつでも車掌さんにSOSを出せる、そういう場所じゃないと、電車に乗れない。十年以上も時間が経っているのに、おかしいよね、でも、いまだにそうなんだ、怖い。
私の場合、そんな大きな被害じゃぁなかった。それでも、こんなふうになるもんなんだね。あの時、初めて知った、ああいうとき声なんて出ないんだ、ってこと。声を絞り出そうとしても、声が出なかった。まるであひるが首を絞められたみたいな、そんな、とうてい自分の声には思えない、そんな代物がちょこっと出ただけで。そういうもんなんだね。
自分が実際そうなって、病気になってみて、日常ってものがどれほど幸せなものなのかを知った。当たり前にできてたことができなくなる。崩れていく。失われていく。それがどれほど恐ろしいことなのかも、その時知った。当たり前のことって、実は、全然当たり前なんかじゃぁないんだね。
今振り返って、今まで経験したことが、無駄だとは思わない。でも、比較するわけでも何でもなく、ただ純粋に思うのは、何も知らないで、平凡に生きられたら、それはとてもとても幸せなことだってこと、そのことを思う。
同時に、私は、多少なり知ることができて、それはそれでよかったと思う。もしああした経験がなければ、今の私はないんだし、そもそも、誰かの気持ちに寄り添うことなんて、考えもしなかっただろうから。しなくて済むならしないに越したことはないけど、でも、経験したことは、無駄ではないのだ、と、そう、思う。
普段控えめな友人が、自分のそうした気持ちをずっと話してくれる。私は相槌を打ちながら、彼女の話に耳を傾ける。二人注文したロイヤルミルクティーは、もうすっかり冷めてしまっているけれど、そんなことどうということはなく。窓の外、徐々に暮れてゆく景色。
彼女の話に耳を傾けながら、私は自分の記憶を辿っていた。私が病院に飛び込んだときのこと。病名を告げられたときのこと。薬を飲みすぎて倒れたときのこと。腕をざくざく切っては血まみれになっていたときのこと。今でも慣れない電車には乗りづらいこと。様々なことを思った。そしてふと思った。もう忘れてしまったことも、多々あるのかもしれない、と。友人の話を聴いて、あぁそうだった、そういう感覚が確かにあった、という形で思い出すことはできても、自分自身でおのずと思い出すことのない記憶も、今ではもうたくさんあるのだ、と。
それだけ時間が経ったのだな、と思った。
彼女が別れ際に言った。こんなふうに話ができるようになるなんて、思ってもみなかった。時間って、すごいね。
そう、ここに至るまで、友人にどれほどの血反吐の道があったろう。それを思うと、私には中途半端な言葉は掛けられなかった。できるのは、ただ、彼女に寄り添っていること、それだけだった。

見に行った展覧会の、写真のプリントたちに、目を奪われる。濃密な黒と白、それらが描き出すモノの輪郭たちの、なんと美しいことか。見終わる頃には、どっぷりと疲労していた。でもそれは気持ちのいい疲労感で。
帰りがけ、車窓の中から新緑を眺めていても、私の脳裏にはあの、モノクロ写真たちが闊歩していた。そしてふと思う。印画紙も現像液もフィルムも、どんどん失われていく今という時代。ここを越えて、写真は何処へ行こうとしているんだろう。越えていったとき、新たに見えてくるものは何なんだろうか。

じゃぁね、それじゃぁね。手を振って別れる。私は階段を駆け下りて通りを渡る。ちょうどやって来たバスに飛び乗って駅へ。
電車が川を渡ってゆく。川は泥緑色をして轟々と流れており。私はその有様にしばし言葉を失う。混み合う電車の中、しばし物思いに耽る。
すべてを押し流してゆく川の力。まるでそれまで川の水が経てきた大地の怒りが、そこに集約されているかのようで。いや、怒りだけじゃない。怒りや悲しみや、様々な思いがそこに込められているかのようで。
さぁ一日が始まる。私は電車を飛び降り、階段を駆け上がる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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