| 2010年05月27日(木) |
薄暗い中目を覚ます。窓を開けるとひんやりした空気が広がっている。辺りはまだずいぶんと濡れている。しんと静まり返った街は、まるで時が止まったかのように見える。私はしばし立ったまま、その静止画のような景色に見入る。 その時ぱっと、動くものがあった。あぁ雀だ。久しぶりにここで会った。私が立つ場所の、目の前の電線に一羽、痩せた雀が止まっている。なんだかちょっと様子が変だなと思って見ていると、立て続けに糞をした。なんだ、踏ん張っていたのか、とちょっとおかしくなる。すると今度はその雀は、私のすぐそばの手すりに止まった。そうして私の方をじっと見ている。私もその雀を見つめている。雀のくせに、こんなに人のそばに来るものなんだろうか、いやそもそも、こんなふうに人を見つめて、何かを欲しそうにするものなのだろうか。私は、手元に米粒を用意しておかなかったことを少し悔やむ。もし持っていたら、差し出すことができたのに。雀はしばらくそうして手すりに止まっていたが、やがて街路樹の方へと再び羽ばたいてゆく。 それにしても、何て空気がひんやりしているんだろう。Tシャツ一枚で出てしまったことを悔やむ。腕を少しさすりながら、私はしゃがみこむ。ミミエデンは順調に新芽を湛えており。挿してから、この枝はやけに元気に見える。一体何がいけなかったのだろう。あの古い株の、何がいけなかったんだろう。分からない。 挿し木たちを集めた、小さなプランターの中。うどん粉病を発見する。とうとううどん粉病がここにまでやってきたか、という感じ。でも、せっかく挿し木から出てきたばかりの葉を、今手折っていいものなんだろうか。私は迷う。このまま伸ばしておいた方がいいんだろうか。いややっぱり。逡巡し、しばらくそのままにしておくことにする。 ホワイトクリスマスは、白緑色の新芽を伸ばしており。それは、他の新芽の色と全く異なる。これがやがてこの古い葉のような、深緑色になるのかと思うと、ちょっと不思議。 その隣で、マリリン・モンローは、紅い新芽を芽吹かせている。あちこちから出てきた新芽。見方によっては、樹が紅い斑模様に見える。結構な根元からもひとつ芽が出てきた。これは、適度に伸びたところで切ってやらなければならないかもしれない。 ベビーロマンティカは、今、しんしんとそこに在る。花を全部無事に咲かせ終わって、ほっとしているかのようだ。新芽の気配も今のところ見られない。でも、葉はみんな元気いっぱいで、明るい緑色を輝かせている。 桃色の、ぼんぼりのような花を咲かせる樹の蕾。まだ閉じたまま。それでも、桃色の丸い粒がそこに、ぽてんと在るのは明らかで。ちょっとでもいい、何とか開いておくれよ、と私は祈るように思う。 パスカリたちの、紅い縁取りのある新芽たち。今のところうどん粉病の気配は見られない。このまま無事に、元気な葉を開いてくれるといいのだけれども。 部屋に入ろうとして、ふと見ると、金魚たちが私の方を追いかけてきている。私は蓋を開け、餌を振り撒いてやる。ちょっと突付いて、一度水中に潜り、そうしてようやく食べ始める。いつもの仕草。大きな体を尾鰭で支え、上手に餌を突付いてゆく。 玄関に回り、ラヴェンダーのプランターを覗き込む。この中にあの幼虫がいる。それが分かっているのに、今何もできない自分。それが悔しくてたまらない。なんとも言いようのない気持ちが、ぐわぐわと胸の中渦巻く。今この時だって、もしかしたら、デージーのか弱い根を食べているかもしれない。或いはこの、今はまだ元気なラヴェンダーの根を食べているかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられない気持ちになってくる。でも。せめてデージーがもう少し大きくなるまでは、いじることができない。 新たに挿し木したものたちは、元気に葉を広げている。やはり、水を吸い上げる力というのは偉大なんだなと思う。彼らが無事に育つことができるように、私には今何ができるんだろう。私は自然、唇を噛んでいることに気づく。この新たな挿し木にもし根が生えてきたって、それさえ食べられてしまうかもしれないというこの環境。 憎い。憎たらしい。久しぶりに、憎い、と思った。鉢の中に居るあの幼虫の姿が、ありありと浮かんだ。ふと、娘を小学校へ送り出したときのことを思う。それがどういう環境であるのかを下調べする暇もなく、余力もなく、私はただ、あの子を送り出した。後になって、そのことを後悔しても遅かった。それでも逞しく育ってくれている娘に、今私はただ、ひたすらに感謝するばかりだ。 校庭には幾つもの水溜りができており。そういえば昨夜雷は鳴ったんだろうか。そういう警報が天気予報で流れていたけれども。水溜りはまるで空の鏡のよう。流れ往く雲を映し出している。幾つも散らばる鏡の破片。 ふと見ると、プールの水がすっかり抜かれている。あれまぁ、いつ抜かれたのだろう。気づかなかった。今プールは、誰かがゴミを掻き集めたのだろう、底の中央にそれが集まっており。そういえば来月だったかには、プール開きがあるんじゃなかったか。娘の学校の予定表を思い出しながら思う。プール。プールには本当にいろいろな思い出がある。泳げるようになって、毎日毎日プールに通った。選手に選ばれ、飛び込み台に立って、飛沫を上げながら泳ぐ。それはたまらなく気持ちがよかった。台風がやってきている最中でも練習はあり、私たちは雨がばしゃばしゃ降りつけ風が唸る中、それでもプールで練習を重ねた。あの頃の先生たちは、今どうしているんだろう。卒業して、全くといっていいほど会っていない。もうあの小学校にあの先生たちは居ない。何処に行ったのかも私は知らない。もしも会えることがあるなら。今はただ、礼を言いたい。あの頃私を支えてくれてありがとう、と、ただその一言を伝えたい。 ふと思う。親子なのだから愛し愛されるのが当たり前だ、なんて言い草は、ただの偽りの神話だと。何が当たり前なんだ? 当たり前なんかじゃない。愛し愛されるのが日常だなんて、誰が言ったんだろう。嘘だろ、と思う。 親子なんだから当たり前。何が当たり前? 何も当たり前なんかじゃない。そもそも、愛してるって一体何だ? 私は子供を産む時、心底怖かった。自分の腹が膨らんでゆくこと自体、怖かった。ここに新たな生命が在る、ということに毎日怯えながら暮らしていた。怖くて怖くて、その恐怖に押し潰されそうになることだってあった。 虐待は連鎖する、誰かがそう言った。いや、会う人会う人が、そう言った。その言葉の向こうには、だからあなたも虐待するに違いないという言葉が含まれているようで、私はだから、怖かった。私も同じことを仕出かして、この子に自分と同じ道を歩ませることになるんじゃないか、と、そう思えて仕方がなかった。 産んだ瞬間、知った。あぁこの子は別個の命なのだ、と。私とは全く別個の、ひとつの命なのだと。それが、私を励ました。安堵させた。 私は確かに虐待されて育った人間だ。でも、私とはまた別個の命がここに在り。ならば、虐待が連鎖するかどうかはまた別の問題だ、と。そのことが、ありありと分かった。 血は繋がっている。間違いなく私の腹で育てた子だ。血は繋がっている。でも、何だろう、私とは全く別個なのだ、と、その時、はっきり思った。 だからこそ、私は、安堵し、素直になることができた。素直にこの子の方を向くことができた。そうして気づけば、この子を必要としている自分が在た。 そしてまた、この子も私を必要としている。そのことが、おのずと、分かった。 いずれは私たちは、それぞれにそれぞれの道を歩んでゆく。それまで私たちは、一つ屋根の下、共に暮らすんだろう。その中で、いがみ合いもすれば、怒りをぶつけ合うことも在るんだろうし、悲しみにくれることもあるだろう。また、共に喜び合い、抱き合うことだってあるんだろう。 でも、そんな中、いつも思っていたい。当たり前なんかじゃない、と。愛し愛されることは決して、当たり前なんかじゃない、ということを。そのことを私は、忘れたくはない。実際私にとってそれは、当たり前なんかじゃなかった。血の繋がった親子であっても、そうじゃなかった。 当たり前じゃない。だから、あぁ愛されているんだなと感じられた時、私は感謝する。とてつもなく感謝する。そして、私もそれに応えようと思うことができる。 いつだったか、とある人からの話に耳を傾けていた時、その人に突然言われたことがある。あなたはこの話、変だなんて思わないの? と。その話は、母親と自分との関係を語ってくれたもので。私にとってその話は、自然だった。母は愛する者、娘は愛される者だなんて考えは、私の中に全くなかったから、その人が、愛されなかった幼少期にどれほど寂しい思いをしたかがありありと分かった。その人が言った。私がこういう話をすると、たいていの人は、でもね、親は子供を愛しているのよ、それが当たり前でしょう?って言うんだ、と。それを言われてしまうと、もう何も言えなくなるの、私にとってはそれは、当たり前なんかじゃなかったから。 そう、当たり前なんかじゃない。母だから、父だから、娘だから、子供だから、愛し愛されるのが当たり前なんて、そんなのただの理想論だ。そう、当たり前なんかじゃなくて。ひとつひとつが、唯一無二の、特別なものだと、私は思う。 今私は、父母から、父母の形なりに、愛してもらっていると感じる。不器用な、つっけんどんな父母だけれども、それでも彼らは間違いなく私を愛してくれている、と。だから私はそのことに感謝する。 私は私で、父母を愛している。幼い頃に追い求めた形とはまた違った形で、私は今、父母を愛している。 そしてまた、私は誰よりも何よりも、娘を愛している。今の私の最優先事項は、間違いなく、この娘だ。 愛というものが何なのか、私にはいまだに分からない。分からないけれども、この気持ちを言葉にするなら、愛しているという他にない、とそう思うことができる。 私はそこから始めるんだ、と、そう思う。 私と娘の、私と父母との、唯一無二の関係を、そこから始めればいいのだ、と。今はそう、思う。
お湯を沸かし、お茶を入れようとしたところに電話がかかってくる。何となく、緊急の電話なんだろうなと思い電話に出る。 ひとしきり話を聴いて電話を切った後、私は空を見上げる。雲がかかってはいるが、今日は一日雨が降らないでいてくれるかもしれない。そんな気がする。 あの雀は何処へ行ったろう。今頃何か食べるものを見つけたろうか。そうであってほしい。
じゃぁね、じゃぁね、あ、冷蔵庫に調理実習用のトマト、入ってるからね。分かった! 手を振って別れる。 自転車に跨り、坂道を駆け下りる。信号を渡り、目の前に現れた公園の緑はもう、森のようで。茂りに茂っており。私は圧倒されて、しばし立ち止まる。息をゆっくり吸い込むと、緑の匂いが胸いっぱいに広がる。 大通りを渡り、高架下を潜り、埋立地へ。銀杏の葉もずいぶんと大きくなった。銀杏の葉群の向こうに、微かに光が見える。 「超えること、そうしたすべてを超越することは、途方もなく大きな注意を必要とします。この全的な注意は、その中には選択はなく、なるという、変化、変えるといった感じのものは何もありませんが、精神を自意識のプロセスから完全に解き放ちます。そのとき、蓄積している経験者は存在しません。精神が本当に悲しみから自由になると言えるのは、そのときだけです。悲しみの原因となるのは蓄積〔物〕です。私たちは日々、すべてのものに対して死にません。私たちは無数の伝統に対して、家族に対して、自分自身の経験に対して、他者を傷つけたいという自分自身の欲望に対して死にません。人はそうしたすべてに対して瞬間ごとに死ななければならないのです。その膨大な蓄積的な記憶に対して。そしてそのときにのみ、精神は自己―――それが蓄積の主体なのですが―――から自由になるのです」 辿り着いた海と川とが繋がる場所、暗紺色に、泥色を混ぜたような色味が広がっている。見上げると、鴎が二羽、低空を飛行しており。大きな翼は、東から微かに伸びてくる光をがっしりと捉えており。 輝く翼に思わず目を閉じる。さぁ今日も一日が始まる。 |
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