嫌いな食べ物「キュウリ」
2001年11月09日(金) |
11月9日5時20分 |
私の性と、私の性に対する精神と、私の性に対する、身体について。
私は男性も女性も、愛することが出来る。所謂、俗世で言う、バイ・セクシャル。何度も友人の間では其れが議論の的になった。其れはそうだろう、動物的な理性で言ったら、私は男性しか愛することが出来ない筈なのだから。
私は、精神は絶対に男性に与えたり等しない、したくない。其れは多分私がファザアコンプレックス気味で、彼が私達家族を裏切ったことがあるからだろう。失望した私に、母親は常に言った。
「男は信用するな。」
と。確かに、私も其の通りと、思った。そうして私は、こうなったのかも知れなかった。本当のところ等知りはしない、唯、推測に過ぎないことは判りきった事項だ、しかし何度も言っておかなければならない。私は万能でもないし、自分の事が判るほど、出来た人間だと思っているつもりもない。そんな奴は何処かへ行け、今から、全てを始め直せ、と。
さて。話がずれてしまったけれど、其れでも私は男性との性交渉は好きである。何故なら自分の身体の価値を、多分曖昧だが私の中では随分と正確に、計ることが可能だから。そして、喜ぶ彼らを見て、私は心の中であざけ笑うことが出来る。
「楽しみたいだけ楽しめば良い、私は貴方に心を渡しはしない。そして絶望に浸って、全てを失って去るか、馬鹿な犬のように何時までも尻尾を振り続ければ良い。」
と!
反対に、女性に対してはそんな感情等抱かぬ。彼女等は常にずる賢く、また其れが非常に美しく思える。特に彼女等の寝顔、というのはまるで私にとっての聖域だった。無防備な子供のような顔をして。私が手を出さないと、信じきった、顔。汚してはならぬもののようにすら思え、思惑通りに私は手を出さないで居る。美しく、可愛く、そして純粋で、時に恐ろしい程にずる賢い彼女等は、私を安心させ、何時でも精神を託すことが出来る。簡単には性交渉には持ち出せない代物のなのだ、女性というものは、私にとって。
私の男性に対する態度を、否定的に見る人は殆どだろうね。そしてもう私の文章など目に入れたくも無い、と思うだろうね。しかし仕方が無いことだ。私はこうしか生きることが出来ない。そして、もしかしたら私の身体の価値を見出せるのは男性の身体無くしては無いのだから。
性とは、人其々で、難しいもの。俗的な、興味の対象ではなく、精神が宿った其れでしかない。
男性は多分私の心を充たさないだろう。
私も彼らの心を充たさないだろう。
女性は多分私の身体を充たさないだろう。
私も彼女等の身体を充たさないだろう。
私の性の世界は、こうして出来ている。性という枠の中の、愛を、もしかしたら私は知らない。この年になっても、知らずに居る。
笑いたいか?嘲りたいか?誹りたいか?私を指差して、逃げて、もう触りたくないと、そう思うか?
子供とは残酷で、非常に感受性の強い生き物だった、多分。私が昔、昔に笑われ、嘲られ、誹られ、誰も私に触れようとしなかったのは、未来の、今の私を皆知っていたからだった。
私は気付くことが無かった。愚かだった。そして今に行き着いた。
何時までも、変わらない疑問を何時までも…考え続けて、果て行く人生が、未来に待っているのだろうか。
さくま