嫌いな食べ物「キュウリ」
たまに、自分らしい、一般的には評価されないだろう論文紛いな文章を書きたくなることがある。誰が理解出来なくとも良いから(実際理解しないだろうし)、そんなものを書いて気分を紛らわし、文字の羅列が自分の指先から紡ぎ出されたその結果を眺めて満足したいという気分に刈られることがある。
思春期に入った頃は自分が独自の視点を持っているとは知らなかった。私は私の規定で普通であったのだし、其れを初めて指摘されて「自分」を見た気がしたのも確かだった。私は他人に「変わっている」という言葉はそう使わないし、「変わっている」という言葉がどれだけ人と自己との違いを示すかも知っていたので、そうして多分私は他人と自分は(生物学的でない意味で)違う動物なのだと認識したのだろう。
それでも当初は「変わっている」という私に向けられる言葉は少なからず誉め言葉であったし、陳腐な優越感や自分は特別だという意識を抱いていたことも確かだった。私はその度に「そんなこと無いよ」と言いながら其れを認め、私にそう言った人を同じ動物だとは考えなくなって行ったりも、した。
それにしても「変わっている」という言葉が私に向けられる回数が多い。
其れに従って私は優越感を感じなくなった。当たり前のこと。「そんなこと無いよ」は本当にそう思い言うようになったし、然しそれは「一般的な解釈で変わっている」というよりは寧ろ「私の中で変わっている」か如何かが問題になったからだった。
確かに私は他人よりも一味濃い色を持っているのを知っているし、言葉の選び方が(一般的な)普通さとは少し違うのも知っているし、感情の起伏は全人類の平均より激しいのも知っている。そして私が他人から「何か違う人」と見られていたりする理由も良く判っているつもりだし、「私」とは常にそういうものだということも。知っている。
けれども私は断じて変わり者になろうと思ってそうなったわけでは無いし、寧ろ私は純粋に流れるように生きてきているだけで、何が如何してこういう性格になったのか、レズビアンになったのか、決定論者に、悦楽主義者に、刹那主義者に、なったのか。その全ては私にすら判らない。
「変わっている」と言われて別段腹が立つわけでもない。
嗚呼そうだろうなという程度。
けれど私は変わり者でしょう?なんて思ってはいない。
そう言われ続けると、嗚呼其れが私の普通なのだと思う、そんな機能が発達してしまうのかも知れない。
今の気分は…普通。(何其れ
さくま