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嫌いな食べ物「キュウリ」


2004年03月11日(木) 小説というものと私

何とは無しに、文章が書きたくなることがある。何とは無しに、無意味な単語を連ねたくなることがある。
けれどもそれは執筆と称されるものであってはいけないのだと思う。私は執筆、というその概念に、深く囚われ過ぎていて、文章を書くという気合でモニタ前に座ると言葉が指先から紡ぎ出ない。何も考えずに打った文章のどれもが、紡ぎ出ない文章のそれよりもずっと気に入ってしまうからということも、ある。

小説、というものを書きたいと思ったことはもうずっと前からだ。
だが一度も、それに着手したことは無い。

私の中で小説という部類は、完全に最初から最後まで、美しく構築された城でなくてはならない。感覚と成り行きとで、物理を無視した小説など既に小説では無い。小説とは、最初の一文字から最後の一文字まで完全に見通した上で書くべき高等技術だ。其処に感情のうねりがあってはならない。うねるように見えるその文章も、「そう」見えるように仕組まれている、これは罠でなくてはならない。
全体を書き終えたとき、どんなに無意味なものであっても、作品の一つの部位を構築するものでなくてはならない。無意味が無意味であってはいけないのだ。

…私はこれが酷く苦手だ。よって小説は書けない。私の文章は、私の文字は、私の言葉は、そのとき脳に浮かんだ事象でしかなく、紡がれるうちに変化する、所謂…私ですら何処に向かうとも知れない一つの狂気だ。規則性も何も無い。激しい内面の変化と、言葉の音と、韻と、リズムと、それだけが私の文章の機軸であって―――その私の特性が如何に、小説書きに向かないか、ということも知っている。

何故ならその文章は、まるで纏まりを見せぬ言葉の綴りでしかなくなるからだ。


そして私は、幾度もモニタに向かい、私の作ることの出来ない城を夢見て落胆したか知れない。文章を徒然に書いてもう3年程度。何とも情けない。


さくま