こしおれ文々(吉田ぶんしょう)
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2004年08月17日(火) |
サイエンス・フィクション【春子(ハルコ)】 第9話 ハミガキの必要性 |
第9話 ハミガキの必要性
中年の男性は、 いつものように私の上で果てた。
前戯の時間は数十秒、 私の中にいる時間も 『who missed whom』並みに短い。
満足することが目的ではない中年の男性にとって、 この行為は【ハミガキ】程度のものでしかなく、 もし、【虫歯にならない】という前提であるなら、 ハミガキする必要がないのと同じことだろう。
【行為】が終わると、 シャワーもろくに浴びないで部屋から出ていく。
【体に匂いがつく】という理由で、 この時は香水・強い匂いの化粧品は 使わないように言われている。
今日も、終始目を合わさずに【行為】は終わり、 10分もしないうちに いつものように部屋から出ていった。
私も、適当にシャワーを浴びて、 秘書の男に家まで送られる。
彼が中年の男性を送らずに、 私を送るのは、 ホテルから家までの間、 スクープをねらって嗅ぎ回るマスコミから うまく逃げるためだ。
私は、シャワーを浴びようと 体を起こした。
目の前には、 このホテルで 一番高いスウィートルールの部屋の風景。
今日は、一段と広く感じる。
私以外誰もいない部屋。
ゴミ一つ落ちてない、 絨毯にも、カーテンにも汚れ一つない。
その代わり、人の優しささえも感じられない。
静まりかえった空間が私の空しさを煽る。
寂しい・・・。
『えっ・・・?』 涙がこぼれた。
自分で理解できない領域の感情が、 私に涙を流させた。 理解できない領域だからこそ、 この涙を抑えることが出来なかった。
抑えようと働きかける力もなかった。
なんで自分が泣いているかわからないから 自分が泣いていることを受け入れられなかった。
仲の良い友人が 泣きじゃくっているのを 優しく見守っているような気分で、
ただ呆然と、 涙がシーツに落ちてシミになっていくのを眺めていた。
そのとき、部屋の扉が開き、 秘書の男が入ってきた。
泣いている私を見た彼は、 扉の前で立ち止まり、少し表情が動いた。
私は我に返り、涙を拭いた。 【泣きやまなきゃ】という指令が、 やっと自分の頭に伝わった。
泣いていることを隠そうと、 慌てて涙を拭いてる私を見て、 彼は、部屋にある電話を取った。 フロントになにやら電話しているようだ。
5分後。
部屋のチャイムが鳴り、 彼は扉を開け、ホテルの従業員から何かを受け取った。
彼はおもむろに私に近づくと、 『スープを作ってもらった。 ここのスープは美味しいよ。』
と言って、ベットの横に置いた。
彼から話しかけてきたのは、 初めて会ったとき以来だった。
そのとき彼は、目を細め、 優しく、穏やかな笑顔を浮かべた。
今日まで社交辞令的な笑顔しか見せなかった彼が、 たった一瞬だけではあったが、 初めて感情のある表情を見せた。
気のせいかと思うぐらい、ほんの一瞬だったけど。
彼が持ってきてくれたスープは、 温かくて美味しくて、心がとても落ち着いた。
注)【who missed whom】(邦題『すれちがい』) ・Charlotte Wailor監督によるフランス映画。 ・上映時間6分のショートフィルム
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