こしおれ文々(吉田ぶんしょう)

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2004年08月18日(水) サイエンス・フィクション【春子(ハルコ)】 第10話 至福

第10話 至福


あの日以来、
彼のことを少し違った視点で見ている私がいた。


【嫌いなタイプ】という視点でしか
見てなかった私が、
スープ一つで変わったことに、
我ながら安い女と笑ってしまう。


それでも、あの時のスープは、
支えを失い、
粉々に砕ける寸前だった私の心には
十分すぎる優しさだった。


人間としての感情、情愛のようなものを、
全てなくし、
ただの人形になってしまうところを
あのスープに、
というより彼自身に助けられたのだ。




次の【仕事】のとき、
車の中で、
『スープありがとう』と言った。

彼は、
『はい。』と一言だけ言った。

その瞬間、また彼は
スープをくれたときと同じように目を細めた。



それから、ほんの少しずつ、
彼との会話は増えていった。



数カ月経ち、
いつしか私は、
彼の送迎を楽しむようになっていた。


往復約15分の時間は、
今の私にとって何よりの楽しみだった。


私を送迎することも、
彼にとっては仕事の一つであるため、
心を許して会話するようなことはない。


それでも、
その会話の内容で、
ほんの少し彼の表情に喜怒哀楽が見える。


私が楽しかった話をすれば、
目を細め、一緒に喜んでくれる。


私が悲しかった話をすれば、
切ない表情で、一緒に悲しんでくれる。



ほんの一瞬でも、
彼は私の感情を共有してくれる。


今まで、私のまわりに
他人の喜び、悲しみを
自分のことのように感じ取ってくれる人はいなかった。


たったこれだけのことでも、
私にとってこんなにも幸せなことだと
初めて彼に教わった。



たぶん・・・彼が好き。



恋愛感情とはちがう。
恋人になりたいとか
そういうことじゃなくて、
ただ単に、
一緒にいる時間が
私にとって、この上なく大切なものであるということ。


私を愛して欲しいわけでもない。


そんな図々しい事じゃなくて、

【仕事】をするときの
あの送り迎えの時間が、
少しでも長くなってほしい・・・、
その程度のこと。


私のような人間にも、
それを望むことくらい許して欲しい



初めて、
私は私の【運命】に対して多くを求め始めていた。


いつかは中年の男性との契約は終了し、
彼との二人だけの時間はなくなってしまう。


それは5年先かもしれないし、
3ヶ月先、
明日のことかもしれない。



そんなのイヤ。



私なんて、どうせ
いつどこで死んでもおかしくない人間だとは思う。

いままでなら
そういう【運命】でもしょうがないと思っていた。


でも今は・・・、


でも今は、少しでも彼と一緒にいたい。



少しでも多く、彼のあの笑顔を見ていたい・・・。





【運命】は変えることが出来ない。
だからこそ、
その【運命】の訪れを、私は恐れていた。


それでも、
私の【運命】は、
少しずつ近づいてきていた。


他人の【運命】を知ることができても、
自分の【運命】は知ることが出来ない私は、
思わぬ形で、
私の【運命】を知ることになる。





私にとって、とても幸せで悲しい【運命】。





管理人:吉田むらさき

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