学校の図書館で、被爆者の手記のようなものを読んだ。少しだけね。 朝日新聞大阪社会部とかいうところが発効してたと思うんだが、 どうも記憶が曖昧でいかん。 その本についてはまた後日改めて、書きます。
それを読んでて、かなり前に日記に書こうと思ってて忘れたことを思い出した。 イラク戦争始まったばっかりの頃だから、もう一ヶ月以上前ね。 或る市民団体(なのか何なのかよく知らん)が主催したダイインに参加してみた。 原爆ドームの前でやるってので、やってみたくなったので。 ダイインってあたしもその時初めて聞いたんだが、 要するに寝っ転がるんですよ。地べたに。 聞いたときは抵抗あったけども、やってみるとなんだか、そういう次元のものでは無い気がした。 また場所柄というのも大いにあるんだが。 夜に原爆ドーム(或いは平和公園)に行くとなると、それだけでもう既に何か特別な雰囲気がある。 更に死者のことを想いながら(その時の主旨はイラクに想いを馳せることだったが) 地べたに寄り添ってみると、なんか時空を越えられるような錯覚を起こす。 きっとあたしの稚拙な妄想に過ぎないんだろうが、 ドーム前のレンガを敷き詰められた地面の下に、限りない呻吟を聞いた気がした。 でも原爆ドームなんてまさに爆心地だったんだから、そこにいた人は即死の筈だ。 だから間違いなくあたしがダイインで呼び起こしたのは自分の中にあった被爆のイメージだけであり、 決して1945年8月6日の産業奨励館前にリンクした訳ではないのだけれど、 それでもいい知れない感慨があったものだ。 拙筆のあたしにはとてもじゃないが言い表せない。それが非常に悔しい。
しかも当時はイラク戦争が始まったばかりの時だったので、 何も出来ずに通常通りの暮らしをしている自分が尚更やりきれなく感じた。 世の中に対して今すぐ何も出来そうにない自分を悔しく感じたのは初めてだったろう。 実際、毎日のんべんだらりと暮らしてる内には、そんな無力感は実感しない。 悔しくて悔しくて、涙が出そうだったことよ。 今でも思い出すと妙な哀しみに襲われる、貴重な体験だった。
そんな体験を持ってみても、やはり人間は忘れゆく動物なのかな、と思う。 新生活だ何だと日々に追われて、前述の本を手に取るまで殆ど忘れていた。 話がずれるけれど、何だかあたしは大学に入って普通になっていく気がする。 今までも普通のつまらんささやかな人間ではあったけれども、 一個の人間であるという気がしていた。 それが今は逆に没個人だな、などと感じることがある。 そこら辺の瀬戸際はまさに紙一重かも知れんけれど。 純粋に自分は「オリジナル」であると感じられることが若さなんかなぁ。
でも身につまされることは多くなったね。 まず自分が如何に頭の悪い人間であるか(笑)ということなど。 考えが浅いのだよ、あたしは。 もう一つ掘り下げて考えねばならんのに、いつもその一歩手前で簡単な結論を出してしまう。 あー、情けないね。 ・・・とか嘆く割には結構平気でサボったりしてるところがどうにも・・・ ああ、小さい人間だ。 反省だけなら猿でも出来る、って懐かしいCMがあったけど、名言ですな。
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