今日は散歩してたので、ゆるーい感想日記なんか書こうと思ってたのだが、 ちょっといろいろ思うところもあって、真面目気味な独り言を書かせて戴く。
ここしばらく、卒論のテーマについて悩んでおるのです。 ってゆーてもまだ二年なのね。書くのは再来年なのね。 だけど、とりあえず年内に卒論のテーマを決定するのが目標に定められてて この二ヶ月ほど、じんわり考えたりしておるのである。
どういったことをやろうか、ってのは結構前から決めていた。 高校生の時分から、一生を通した長いレンジで、 ヒロシマについて何らかの形で関わっていきたい、とは思っていた。 それを職業として為すのか、それともまったく私的な部分で為すのかは漠然としていたが ウチの大学に入るにあたり、基本理念の一つに 「平和を希求する人間」とか何とかいうのがあり、 それじゃあここの大学で学ぶことはこれだ! とか勝手に閃いちゃったのである。
これまでの中高6年間でヒロシマ、ナガサキ、戦時下の加害行為や 現在も残る諸問題(差別、在外被爆者など)について、ある程度は学んできた。 ――学んできた、つもりであった。 確かに私立学校であったし、その上ミッションスクールでもあったので 公立学校に比べれば密度の濃い学習を毎年受けてきたかも知れない。 必ず決まった時期に一週間プログラムされてたしね。 しかしいざ論文の形で自分の思うところを表してみよう、と思うと その余りにも曖昧とした気持ちに茫然としてしまった。
個別の事象を取り上げれば、それぞれ批難すべき点は多々ある。 そもそも原爆投下は、許されるべきことではない。 しかし同じように、日本軍・政府の行ってきた侵略行為も許されざる行為である。 原爆で苦しみ、命を落とした方々の命と 日本軍に苦しめられ、命を落とした方々の命とを 天秤にかけることなど当然出来る筈もない。
しかし、と思った。 いくら日本政府が暴挙の限りを尽くしても、原子爆弾の如き大量殺戮兵器を使用してもいいのか、 もっとほかに終わらせる道はなかったのか、 現に八月当時の日本には、もう戦争を続ける体力はなかったというではないか、 という反駁を高校生までの私は強く抱いていた。 勿論、それは日本軍の行為を看過するものではない。 加害は加害で受け止めるべきである、と今も昔も思っている。
だが戦争の目的は、単に自国の利益である。 善行を含む戦争など聞いたこともない。 アメリカ・イギリスの立場に立って考えるならば、
戦争はさっさとケリを付けたかったろう、 戦費は莫大であり、早く片付くならこれほどありがたいことはない、 また通常の戦闘行為では、少なからず犠牲者が付き纏う、
――そういう時にもし原爆投下を実現するなら、
一気に大打撃を与えれば、戦争終結はほぼ確実である、 通常の戦闘行為と違い、兵士の犠牲を出すことがない、 また、「原子爆弾」という新兵器の開発にとっても美味しい一歩である、
従って、原爆投下は論理的に妥当であるのではないか、と思った。
そう思って、私の議論はすっかりトーンダウンしてしまった。 何処にも「善か、悪か」の議論の余地が見つからない気がしてしまったのだ。 これってやはり、生命倫理の範疇なのかしらん。
例えば、原爆投下以外の手段で戦争終結させたと仮定して、 その場合予測されうる人被害、戦費のコストなどの試算データを探し出して、 そのデータとヒロシマ、ナガサキの被害データとを比較して議論する。 そういう方法も考えてはみた。 しかし、人の命って、お金とか物とかとは違って、 単純に数字だけで比べられるものではないじゃない。 じゃあ、どうしたらいいんだろう、という迷路なのです。
人の命を奪うことが悪であるのは、分かりきってることではあるのだ。 でも単に義務論の上だけで語れるものじゃないように思う。 私はカント主義でもなければ、功利主義でもない。 現実にはどちらの要素もいい具合に入ってなきゃならんのじゃないかと思う。 けれどそうやってごちゃごちゃしてくると、 頭の弱い私ではすっかり脳の容量オーバーで訳分からんくなってしまう。 困ったものだよ。
まぁ、まだ前期の中頃だし、第一次発表までは半年くらいはあるんだし、 ゆっくり切り口探してみよう。 いっぱい本も読まなきゃー!
今日はくそ面白くもない話でごめんちょ。
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