原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2000年02月10日(木) 感想「目を閉じて抱いて」 「夏の約束」

★1・感想「目を閉じて抱いて」やっと完結
★2・ネタばれ感想「夏の約束」



★1・感想「目を閉じて抱いて」やっと完結

(本当は「夏の約束」の感想とか書きたいんだけど、いろいろあってまだノッて来ないので、別のを書いちゃったりして;なんか、いちばん大きな宿題を後回しにしてしまう中学生のような気分;うっ、これは現実にそうだった! あーん、変わってないなぁ、自分……)
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内田春菊の「目を閉じて抱いて」が、ようやく完結した、と聞いて、私は書店へ急いだ。
で。
……今、5巻を読み終わったばかりだ。
手が震えている。
「正常」に名を借りて、その中に依存することで「異常」とされる人たちよりもずっと歪んでしまう人々を、巧みに描いていると思う。
「樹里」も「高柳」も、タイプとしてはけっこうそこらへんにゴロゴロいそうな女や男だが、「異常」とされることが多いタイプである「周」「花房」「七臣」と比べたら、よっぽどヒドいことをしている。
高柳が逮捕されたとき、その直前のセリフで「ああ、こいつはもう引き際だなぁ」ってわかっていたのに、「これでやっと救われる」というような想いに駆られたのだった。私の「震え」はここからだ。
高柳「だから正当防衛だよ オレは 間違ってないだろ!!」「おかまに おかまって言って 殺されちゃあ かなわねえよ!」
「オレたちちゃんと学校行って会社入って まっとうに生きてる 人間だぜ!!」「こんな そこらじゅうで やりまくっている・・」「おかまとかおコゲとか そいつらにやられて 喜んでるやつらとかに 脚ひっぱられんのは まっぴらなんだよ!!」
これが大方の人々の本音なのではないか。
そうして、まともぶって、「異常」なことを「隠し」たり「非難」したがる人々ほど、ひと皮むくととんでもないエゴが腐臭を放っている。
唯一、「異常」でないにも拘らず、(私にとって)「向こう側」の人間でなかった「城戸津也子」の存在が救いだ。
ラスト、花房と津也子がともに妊娠しているのも、私にとっては「救い」と言えば「救い」だ。

「あとがき」で、作者の内田春菊氏が言っている。
「みんな、花房に対して持ってるイメージ、でか過ぎ。」
でも、私に言わせれば、妊娠することもさせることもできるIS(インターセックス;半陰陽;ここではたぶん「真性半陰陽」として花房を描いている)なんて、多くて1億人に1人、もしかしたら60億人に1人ぐらいしかいないような気がするので(統計はたぶんまだとれていないでしょうけど……)、そういう意味では
「女神」
として扱われてしまうのも、仕方ないんではないかい?
(あ、そろそろ「震え」が止まってる)
「自分が知ってることからしか描けません」
とご本人もおっしゃっているが、お話の初めから、
「そんなISいないよー」
と思いながら、それでも冒頭に挙げたようなテーマがくっきりと見えるから、私は読みつづけた。
途中、完結しないまま、連載が止まってしまった(だいいち、「フィールヤング」っていう雑誌、探しても見つかったことなかったんだもん!)ので、すっごく欲求不満だったけれど、……うーん、上手な言葉が思い浮かばないや、とにかく、よかった!
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(掲載直後に加筆:まだまだ多くの人々が、インターセックスそのものに対して大きな誤解や偏見を持っていると思います。
インターセックスは基本的に臓器のヴァリエイションであり、「性格」や「気質」の異常なんかではありません。
だから、たまにアダルト系の小説や漫画なんかで「両性具有」ものとかあるけれど、あんな男性器も女性器もびんびん、なんて人は現実にはほとんど;全くと言っていいぐらい;存在しないのです。
むしろ、性については「人と違う」ことを体験し、多くの場合それについて適切な理解へと導かれることもないので、「性同一性障害」と同じようなアイデンティティの阻害を引き起こすことも多いのです。
正直、自分自身も、無知な世代の頃には「半陰陽」を自分のファンタジーの「道具」のように扱っていたので、その反省も込めて記します。
ただ、私自身は「半陰陽」に対して、今でも「憧れ」の気持ちはあっても、「異常」とか、まして「両性具有=みんなやりまくり」とか、そんなふうに考えたことは一切ありませんし(そりゃ中には「やりまくり」の人がいるのもふつうでしょうけど)、そういうふうに考える人とは、個人的には一生おつきあいしたくもありません。
もちろん、とんでもない誤解の中にでも一生浸っていなければ自我が保てない、と主張する人に干渉する権利は、私にもありませんけど……最後、ちょっと辛辣(^^;)

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★2・ネタばれ感想「夏の約束」

☆注意!!:以下の文章は「夏の約束」(藤野千夜)の「感想」を中心として書かれていますが、全面的に「ネタばれ」です。
ですから、できる限り、作品をお読みになってから、この文章を読まれますよう、お願いします。
でないと、ソンすると思う;だって、「ネタばれ」ではあるけれど、それで作品の味わいがわかるとか、まして作品の伝えたい雰囲気とか気持ちとか(あ、それが「味わい」じゃん、一緒か)、そういうことが分かるとは、とても思えないから。
それに、私の文章、つまんないし。
私は別に藤野千夜さんのマワシモノではないし、まして彼女の「営業」をしようとか、一切思わない。
でも、まず読んで!!
自分の五感で味わって!! ね♪

とうとう宿題から逃れられないみたいなので、一言書きます。
(たぶん、自分にとって、それが最善なのでしょう)
私にとって、「約束」は時として「宿題」になり、果たせなくなるものです。
菊ちゃんなんかは、もしかしたらそういうところがあるかもしれないね。

……と、いきなり「菊ちゃん」から入るあたり、登場人物が「立っている」と感じられるのが、この作品のまず大きな特徴だと思います。
「登場人物が立つ」っていうのは、登場人物の設定や性格・容姿などの描写、気持ちの動き、その他がとってもよくできていて、読者にとってその人の姿が紙面から「立ち上がってくる」みたいにくっきりしてくることです。
私、もしかしたら「この小説は菊ちゃんを中心としたお話です」って言われて読んだら、信じちゃったかもしれない。
それに、たぶん、そういう「軸」も持っていると思う。
だって、単行本の表紙の見返しのデザイン、菊ちゃんの部屋の隅に立てかけられたコルクボードの写真でしょ?
(お願いだから、「現代の小説はそんなこと=登場人物一人一人に軸を持たせること;ぐらい、当たり前だっ!」なんて突っ込まないでね。私、1950年代以降の作品って、ほとんどちゃんと読めてないんだから。それこそ「芥川賞作品」なんて、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」が「文芸春秋」に載っているのをわざわざ買って読んで以来、「文芸春秋」という雑誌を買うこと自体20年ぶりなんだから…… あ、あと、宮本輝っていう人も「芥川賞」獲ったんだよね? あの人の作品は人に薦められて何冊か読んだ。私、読むとものすごく影響されちゃうから。新井素子はほとんど持ってる。30歳過ぎてからはあんまり作家に入れ込まないようにしていたんだけれど…… 今度は、さすがにねえ、…… 何が言いたい?)
「軸」のこと、少し突っ込んで考えようかなあ。
現実に生きている人にとっては、必ず自分が自分の生きているストーリーの「軸」っていうか「主人公」なのよね。……やっぱり、「主人公」は重たすぎるから、「軸」にするね。
で、他人と関わるときって、いちおう自分を「軸」にしてはいるけど、どうしても相手の「軸」も考えなければ、お付き合いなんてできないじゃない?
それをどんなかたちで捉えて、どの程度考慮して、それをどのように表して、どういう行動(=ここでは「約束」)に結実していくか……
それって、「小説」では、かなり描き出すのが難しいことがらなのでは?
それも「小説の基礎」?
うーん、「他人の尺度」を気にするのは止めよう!
要するに、私は各々の登場人物がお互いに関わりあうときの、「how(どの、どう、どんな……)」の部分が、とっても素敵に描けていると思うの!
「素敵」って言っても、「すばらしい人間関係」なんかじゃないよね。
すごくはかないよね。
でも、一瞬出てくるだけの「新川久美子(愛称・シンクミ)」も、藤野さんが

>つやつやの長い髪をして、ウエストがおそろしく細いくせに部屋がとんでもなく汚かった元同級生
(本文より引用―単行本p33;以下「p××」とのみ表記)

なんて数行書くだけで、
「ああ、そういうコ、いるよね!」
って、「キャラが立ち始める」のよ!
よく読んでみると、やっぱ「第一印象」って大切だからかなあ、誰かが初めて登場するときには、必ずその人について、このお話の中で出てくるに当たっていちばん「適切な」描写、っていうか紹介をしているように思います。

ただ、それって、かなり「レッテルを貼る」作業に近い、とも思う。
それはまた、「差別」と紙一重の行為でもある。
(関連記事:EON/W http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/index.html )
このことについては、ヒカルが面白い動きをしてるよねえ。
「性役割」については否定的、でも本人は多分に「おねえ」で、しかも一人称は「俺」。
マルオに「どっちかにしなよ」とか言われてるし。
1人の人間の中に、両面、あるいはもっと多面的な価値観がいっしょにあるって、実はけっこうよくあることなのでは?
私は、自分が(容姿はだいぶ違うんだけれど)ヒカルに似ているな、と、読みながらずっと思っていたの。
だから、

>(……)マルオは、姉さん姉さんと繰り返しながら、左手でヒカルの腰を抱いた。その鼻先を大きなトラックが二台、スピードも緩めずに走り抜けて行く。ヒカルは無言のままマルオに腰を抱かれていた。
(p43-44)

のところは、私には本当に「濃い」場面で、息苦しいほどヒカルが羨ましかった。
じゃなくて、ヒカルとマルオが「どうやら中学受験で有名な進学塾の生徒たちらしい」子どもたちから、無邪気で残酷な「差別」を受けたとき、自分自身も「差別的表現」で言い返すしかなくて、本当はフリーライターなのにそういうときは「怒りで語彙が不足しているのか」小学生とおんなじようなことしか言えない、という場面だったのも、私を息苦しくさせたんじゃないかなあ。

で、マルオとヒカルの関係も、実は「レッテル貼り」の部分が強くて、本当はお互いのこと、そんなにわかっていないんじゃないか、という気がしてきて、一見「さらっ」としたイメージのこの小説が、その感じはそのままに、「息苦しさ」を持ち始めるの。
(でもね、ここで「マルオはヒカルを奥さんにして一緒に住みたがっているのに、ヒカルはその気がない」とか、輪をかけて「レッテル貼り」しても、作品がかもし出している「香り」を壊すだけで、面白くもなんともないよね(^^;)
みんな、お互いのこと勝手に決め付けてすれ違っているんだけれど、なんとなく最後は「予定調和」(古い言葉だねえ(^^;)で締めくくる。
そういう人間関係でないとやってけない感じ、っていうのが、もしかしたら「芥川賞」もらっちゃうほど「普遍的」なのかも。

誰の批評にあったのか忘れたけれど、終わりの方に「菊江の兄」のエピソードが出てきます。
それが「浮いている」っていうのね。
ああ、そうか、確か「文學界」で藤野さんが黒井千次さんと対談している中で、ご本人もちょっと「どうしようか」って言ってたんだ。
私は、これが「ソッとくる」(黒井さんの表現)ということの「起源」であるように思えて仕方がないのだけれど……。
これはうまく言えないので、もっと適切に言い表せる人がいたらどこかに書いてくれると嬉しいです。

ふらふらと長くなってしまって、ここまで読んでくれた人はほとんどいないと思うのだけれど、最後にちょっと「表現技術」のこと。
なぁんて書くと、私はなんだか「エラい人」みたい?
気がついたことがあるのよ。
一つ目は、今私もへたくそに真似してみたんだけれど、途中まで何か言いかけてから、それを「言い直し」ているうちに意味が変わってくる、っていうこと、日常ではよくあるでしょう?
女の子たちの間では「発話のきっかけ」みたいに使われているけれど、
「ってゆーかー……」の語源、もうちょっとていねいに
「というか」という言い方で、人の気持ちの「揺らぎ」みたいなもの、とっても上手に表していると思う。
(私は「なぁんて」で真似したけど、失敗(^^; 表すほどの「揺らぎ」じゃなかったから)
もう一つは、セリフの表記。
きちんと分析できてるわけではないけれど、「〜」で改行してあるときとないとき、それから、地の文の続きがそのままセリフになっている場合(英語では確か「描出話法」なんて呼んでましたよね?>銀河さん)と完全な間接話法、それらがセリフの途中でも切り替わったりしてるの。
それが、なぜか、その人がそのセリフを口にしたときの様子や気持ちに、ぴったりに思えて仕方ないの。ぜんぶ。
すっごくさりげなさそうに書いているので、けっこう気づかずに通り過ぎている個所がある。
でも、もしかしたら、藤野さんは「気づかずに通り過ぎる」こと自体を狙って書いているのかもしれない。
うがちすぎかもしれないけれど、そういうのをT’s用語(^^;で「パス」っていうのよね。
最後は「内輪受け」?

私の文章は「他人の感想の感想」っていうところがかなりあるけれど(できるだけ出典は明らかにしたつもりだけれど)、みなさんは私の思い込みの激しい文章を読んでどう思いましたか?
「感想の感想の感想」、もらえたらうれしいなーっと♪ ……(^^;
あっ、でも、作品をまだ読んでないのに、ついついここまで来てしまった人、もしもいたら、この下らない文章のことはすっかり忘れて、本文を読んでね。
ぜひ、ご自分で味わって下さいな。
「ソッとくる」感じを。

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