原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2000年09月20日(水)


★09.20-1・「アメリカン・パイ」と「どろろ」と「11人いる!」……「越境のトリック」?!

at 2000 09/20 08:59 編集

(「萩尾望都作品目録」への投稿より抜粋転載;あこさんのコメントへのレス、というかたちになっているため、あこさんの発言に言及している部分はいちおう除きました。その「続き」として以下の文が現われてきた)

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ところで、「アメリカン・パイ」と手塚治虫の「どろろ」には共通点があります。
(藤本由香里「私の居場所はどこにあるの?」からヒントを得ました)
どちらも、主人公ははじめ「男の子」として登場し、後から「実は女の子」と発覚する、というトリックをもっているのです。
「アメリカン・パイ」ではほとんど「発端」、「どろろ」では後半の「転換点」にあたる部分で出てくる、という違いはありますが、リューもどろろも、それぞれに何らかの事情があって女の子なのにまるで「男の子のように見える/振舞っている」。

小学生の私は「どろろ」を読んで(それも連載で! ちょーリアルタイム)、そのことにとてもショックを受けたのですが、つい最近までそれを忘れていたのです。
でも、どうやらその描き方は私の心の深いところに染み込んでいたらしく、だから私はほぼその頃から「いつか私もどろろみたいに女の子になれる」と思ってしまったようです。
その後、実は「11人いる!」で、フロル・フロルベリチェリによってその考え方は「裏付けられ」、フロルの「よく飽きんなあ」に共感し、とても美しく儚いかたちで「アメリカン・パイ」のリューによって「実証」されたのでした。
中学生〜高校生の私にとって、そこまでしてしっかり「定着」してしまった「性別についての構造」は、もう私の中で「現実の感覚」として実感してしまっているのかもしれません。
それが「越境」の原動力であり、私が「ふつー」とは言えない視点を持ってしまっていると思われる所以です。

ただ、藤本由香里さんにしてもあこさんにしても「命の夢」についてもう「女であること」に拘っていないのに、私が「成長後の姿としての女性」を想定してしまっているあたり、なんだか私って幼いなあ、と思ってしまう……。

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投稿はここまでなのですが、これにもう一つ付け加えたいこと。

手塚治虫に言及するとき、私は自分のジェンダー観に対するこの人の影響はとても大きい、と感じてしまいます。
小学校の低学年の頃に読んだいくつかの作品において、性別を越境する試みがとても大胆に行われていますし、それを読んだ私にとっては、心のとても深いところに沈潜してしまっていたのです。
例えば「どろろ」が作品の後半で「トランス」してしまう(私にはそう見えたの! だって、作品の最初からずっと、どろろはいかにも「男の子だぜっ!」という描き方をされていたから!)ことを、その後何十年か「忘れていて」、単行本を買って読み返してみて初めて「えーっ、そうだったの??」とびっくりした、なんていう場面もあるほど。

私はこういうことのせいで、例えば手塚治虫(やその他の作家たち)の描いている「越境もの」が、今後の子どもたちに対して「禁断の書」扱いされてしまうことを危惧します。

いわゆる「18禁」が「未成年者に対して有害な影響を与える」という発想で成り立っているのだとすれば、私に起きていることはまさに「有害な影響」に外ならないと思うのです。
でも、私はそういう発想そのものを、むしろ「危険」だと思います。
それは、私が「年なし、性別なし」やここ「原案帳」で何度も繰り返しているように、「隠されてしまったせいで真実を知りえず苦しむ」ことを助長するだけ、と感じられるからです。
極端なことを言えば、SMとかヘンタイプレイみたいな露骨な性表現を含むものも、然るべき指導がされうる状態であれば子どもに見せても良いのではないか、とさえも思うのです。
(でも、実際に「プレイしているところ」を子どもに見せるのは、ちょっと気持ち悪くてイヤだなあ……)

あ、違った。
「露骨な性表現」と、私が影響を受けた「越境の表現」は、全く別のもの、と考えるべきでしょうね。
きっと、私の中に「越境の表現」のほうにより強い影響を受けるような何かが、内在していたのでしょう。
それをいっしょくたにして「隠すべきではない」と言ってしまうのは、ちょっと乱暴すぎました。
また極端な言い方をすれば、私と同世代で手塚を連載から読んだ人がみんな「越境の表現」に強い影響を受けてトランスしようとしてしまっているのか、ということになっちゃいますよね。(^^;

--------------------(ここから文意が少しずれるので、いったん仕切りますね(^^;)

私は早く大人になりたいです。
女として。
「男としての私」がなんだかひどく幼稚っぽいところが多い、ということの言い訳をする気はありませんが、それならこの先「大人の男」になれるか、と言われたら、これはちょっと無理だと思います。
だって、「大人の男」には絶望しているから。
私の近くにいる「大人の男」たちは、みんな仕事についてはとても素晴らしい、尊敬に値するものを持っているけれど、「人として」見たら、あまりにも貧困な人が多すぎる。
少なくとも、人として私が「ああいうふうになりたい」と思えるようなものを持っている人がいないのです。
けれど、女としてなら成長できるような気がするのです。
豊かになったり年老いたりすることが「あんなふうになれればいい」と思える人は、悉く女性なのです。
それは都合の良い幻想なのでしょうか。
でも、たとえ幻想でも、捨ててしまったら私の未来は再び暗黒の絶望に塗りつぶされてしまうでしょう。
十代の頃に「30歳以降の自分は想像もできない」と思っていたのと同じような状態に、また戻ってしまうでしょう。
情けないけれど、あの頃からこっち、「大人の男」について、より良い幻想を育てることはできなかったのです。

ううん。
破綻してしまわなければ、それでもある程度妥協して「男」を身にまとって生きていくことができたかもしれません。
でも、いくら無理して「男のふり」をしても、なんにも報われないんだもん。
もう、やだ。そんなの。

まだまだ、「男をやっていた時の癖」で、私は「言うべきことが言えない」「決めるべきことを決められない」など、ちょっと致命的とも思える欠点が改められません。
おそらく、多くの人が「そんなこと、男か女かなどということには関係ないだろう?」と訝るでしょうね。
でも、私にとっては、「男の自分の決断」とか「男の自分の表現」とか、そういうものは自分の姿としては思い浮かべることができないし、仮にできたとしても「暴力的」「破滅的」になってしまわざるを得ない、と思えて仕方ありません。
慎重にものごとを決定するなら。
豊かに自己表現するなら。
「女の私」が、それをしましょう。

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