原案帳#20(since 1973-) by会津里花
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2000年09月23日(土)

★09.23-1・パターン
★09.23-2・手話ニュースでオリンピック



★09.23-1・パターン

at 2000 09/23 06:24 編集

>>
ミラボー橋の下をセーヌは流れ
わたしたちの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると

日は暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

(G.アポリネール「ミラボー橋」より;堀口大學・訳)
>>

楽しみのあとには悩みが来る と
それが私の躁状態。
そういう「どうにもできないこと」のせいにしてはいけない。
けれど、気をつけているつもりで、いつも「全く同じパターン」に嵌ってしまう。
気をつけるやり方を変えるべきなのか。
それとも、「普段と違うこと」を常にチェックするべきか。

悩みのあとには楽しみが来る
楽しみのあとには悩みが また 来る

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★09.23-2・手話ニュースでオリンピック

at 2000 09/23 13:29 編集

手話ニュースでオリンピックを見た。
手話の特徴の一つに
「表情」
がある。
ふつうに口でしゃべるのよりももっと表情を大きく、はっきりとさせるのだ。
何かで読んだのかどうか、どうやら「手話」といっても「手」だけを使って話をするのではなく、身体の「音声以外の全て」を使って発話する、というのが手話の正体のようである。

おかげで、1週間分のオリンピックを僅か15分しか見ていないのに、それなりに感動してしまったわ♪

大修館書店の月刊雑誌「言語」に「手話ネイティヴ」の人の話が出ていたが、実は音声言語よりも手話のほうがずっと情報量が豊かだと思う、と書いていた。
確かに音声言語は時間に沿って情報を並べていくしか情報の表示方法がないが、手話では例えば「いったん置いといて」みたいなことをやれば、提示した情報が「立体的な構成」を持つようになる(ある程度視覚化する)のだ。
その人の言っていたことで印象的だったのは、(そのまま引用ではなく自分なりの言い方に変えてしまうが)手話ネイティヴの人が音声言語を使うと、手話だったら簡単に盛り込める情報をいわば「タテに並べる」ことになるために、とても「もたもたした感じ」になってしまうということだ。

ここから先はほとんど私の言い訳になってしまうけれど、私も含めて何だか「話が長い」「おしゃべり」な印象のある人って、実は「ことば」以外のイメージを抱えていて、それを無理やり「ことば」に変えようとするので、たくさん使わないと(実は「いくら使っても」!)充分に表せないような気がする(というより、たぶんその通りなのだろう(^^;)。
いったん全てをことばに変換してしまうことのできる人というのもいるのだろうけれど、私にはそんなことしようとしても頭の中が平べったくなってしまうだけなのだ。

あら?
なんか違う話になっちゃった。

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