| 2006年09月05日(火) |
違いがあるから必要なこと |
私はあまり他人から大ダメージを受けたことがない。それは、私の周りには「ひどいこと」を言う人がいないためなのか、私が言われていることに気づかない鈍感なだけなのか。というか、その前にもともと人付き合いを広く持たないことも原因のひとつなのでしょうね。それに、もうそれ以上クヨクヨしたり悩んでも仕方のないことを言われても、ウジウジするだけ無駄だと想いませんか、そういう場合、「いいや、私は悪くないじゃないか」って自己解決させてしまうこともよくあります。 ちなみに、ちょっとお互いケンカごしの場合、「言われたら言い返す」の精神で、受けたダメージはその場できっちり相手に返すことで、ストレス発散して忘れているのかもしれません(結局後で後悔しますが、言葉自体に傷ついてはいません) 同じ言葉を言われても、「傷つく人と傷つかない人」がいることは仕方のないことだと思う。 「鈍感な人」は時に「思いやりのない人」にもなる。開き直りは、「開き直る図々しい人」とも「開き直る図太さがない人」ともどちらの意味にもとれる。「強い人」は「ワガママ」や「自信過剰」にもなりうる。一方、「鈍感な人」は嫌味を言うのが大好きな人には「ストレス解消の絶好のカモ」になるし、「開き直る人」は「過ぎたことでウジウジしない良さ」がある。 「傷つくことが悪い」わけでも「傷つかないことが良し」でもない。 でも、常に「相手が傷つかない言葉」を選ぼうとすることは、どんな人にも大事なことで。 「平等」と言われているけれど、「傷つく言葉」に平等も辞書もなくて。だから「こう言われたら傷ついても、おまえは正しいのだ」とか、「こう言われて傷ついても、おまえが悪いだけだ」なんてものはない。人が真に平等になることなんて、ありえない気がしてくる。人はみんな違う、誰だって基準や、価値はぜんぜんちがう。「わからない、自分が何を悪いことをしたっていうんだ?!」そういう風にあせったとき、不満や、不平を感じるかもしれないけれど、だから「やさしさ」が必要になるんだ。自分は悪くないのだと主張するのをやめて、泣いている人に耳をかたむけること。 誰が正しくて、誰が悪いのではなくて、「やさしさ」を持つことが必要なんだ。
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