ふつうっぽい日記
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2007年09月03日(月) 「ふつう」について

この日記のタイトル「ふつうっぽい日記」。

なぜ、このタイトルにしたのかというと、何が「ふつう」で何が「ふつうではない」のかが分からなくなったからだ。
考えすぎるのはよくないけど、時間があるなら、考えてみる事は無駄ではない。(と私は思う)
もしかしたら、このようなことを考えることは、ある種「おかしい」のかもしれない。


今月、ある研修に参加する。ボランティアに参加するための養成研修というものだ。
今まで、ボランティア活動を「正式に」した経験はない。
結果として、ボランティアだった…というのは何度かあった。(学校の部活動で手伝いをした等)
その研修の参加資格は20歳以上の市民。
特別な資格は不要。ただ、市民でありさえすればよいというもの。
実際に講習を受け、現場で体験して、登録となるまで、詳細には触れないが、おそらく関係することであろう内容については思いつく限り、入手できる範囲で、情報を集めてみている。
専門書まで読破するには、やりすぎだろうと思われるので、「市民」目線でも分かりそうな文章を選んで。
それがなかなか、ありそうで少ない。
サポートを運営及び企画する側、サポートされる側、サポートされる対象の血族向けのものが圧倒的に多い。サポートされなければならない原因については、いろいろと研究はされているが、そこから関わっていくのは、とても「凡人」では内容を理解するまでに時間がかかる。
そして、そこまでボランティアを呼びかけた企画側は、求めていないと思う。
そう、どこまで「市民」に求めているのが分からない(「ふつう」分かるのだとすれば、私は「ふつうではない」センスの持ち主だ)

いくつか、関連しそうなキーワードを含む教養書(新書)は買ってみた。
それらとはべつに、『こんなサポートがあれば!』という太字の見出しで手に取った、これはサポートを必要としている対象自身の声だった。

ある種の体験談ばかり集めた文章は、時に集中力を欠くがこれは違う。
単に身の上話を綴った内容ではないからだ。
自己分析の推移というのが、サポートを「受けたかった」本人の言葉で表現されている。
実際、彼らの必要と考えるサポート体制が整ってきているのかについては、分からないが、彼らの思いと気持ちに触れ、「ふつう」であるとはいったいどういう事なのか?をあらためて考えざるをえなかった。

「負の才能を持つ」ことは「ふつう」ではないのか?
同じ事ができることが「ふつう」なのか?
同じ事ができるように努力するのは「ふつう」ではないのか?「ふつう」になるための努力の姿は「ふつう」だと自覚している側にはどう映るのか?


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「社会全体が障害のある人にやさしくなれば、どんな人も暮らしやすくなると思います。心豊かな社会を築くには、まず僕たちが心豊かになることだと思います。」(本より抜粋)


KAZU |MAIL