ふつうっぽい日記
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2011年03月10日(木) それでも出逢う

1月にラジオで偶然聴き取った内容で、気になる本があった。
雑誌の出版に関わっている人が紹介していた本だった。
その本はちょっと難しいけど読みやすくちょっと怪しいかなと思われたがさまざまな研究についても触れているので読み応えがある、といったコメントだった。

その本のタイトルをメモって心当たりのある本屋で在庫検索をした。
近所の本屋で取り寄せたい旨を伝えた。
しかし、「出版社にも問い合わせたところ、増刷の予定はない」という返事で入手は実現できなかったのだ。
その本にこだわるのは、あきらめた。

後日、そのタイトルを含む本やテーマとして扱う本に偶然何冊か出会い、私は買ってきた。
それもめぐり合わせだと思い、連想ゲームの様に次から次に手に取って読みたいと思った本は必然的なのだ!と思うことを素直に受け入れた。
解剖学者の著作まで行き当った。


1日前に読んだ養老氏の本でこのようなことが書かれてあったことを思い出した。
「科学」で証明されたある一つのことを信じすぎると「宗教」のようになるので、「科学」と「宗教」は時々仲が悪い。


ここで、自分を考察する。
「科学」的に論理的で道徳的に心理的な視点で展開する文章に私は引き込まれやすい。自分へのメッセージと受け取ってしまう。
惑わされない距離感を持つと、最高の「師匠」となる。

しかし、例えば、心のバランスを崩していて、そのまっただ中である時、その自覚がない時、最高潮に対峙している時、そのようなメッセージに依存すると、暴走は止まらなくなる。
あたかも自分を陥れているのではないか?
何かの「宗教」的な空間へ誘導されようとコントロールされているのではないか?
そのうち、聴こえないほうがいい「声」まで聴こえてくる。
見ているテレビやラジオや新聞などのあらゆる言葉やメッセージが自分の敵にしか思えなくなる。やがて、身近な家族から自分は抹殺されるのではないか、また、自分が拒絶したいと思うとか不満を抱いてる対象を殺してしまうのではないかという極度の不安(妄想)にずれていく。

今となっては貴重な経験、というところまで思えない。
でも、「恐怖」ではない。
それを「恐怖」としてしまえば、そう思っている自分(「自我」)を消すことでその「恐怖」から逃げないといけなくなる。

「自分を振り返る」こと、「反省をする」ことは大切だが、そのやり方によっては選ばないほうがいい選択もある。
それでも、選ぶのは自分なのだ。

しかし、今日、一度、あきらめていた本と思いがけず出逢った。

「あきらめた」という気持ちはなんだったのか。
実物を前に私は試された。

「君はたしかあきらめたんだよね?」という光線をダイレクトに受けた。(気がした)

後から聴こえた(※危ない声ではない)


学生時代、芝居の脚本を書いていたこともあり、どうも台詞を文章化したくなる私がいる。


あきらめていた本(台詞):遅くなってごめん。どうしようかなって思った。でも、すぐに君の前に姿を現さなくてよかったなって思う。
求めている物がすぐに手に入ることが喜びだというのは君はよく知っている。
だから、君に練習をさせたくなったんだ。
ほどよい探求心を持ちながら、偶然から展開される流れに君はついていけるかってね。
君は自分と対話しながら、向上していけるようになった。
前を向いて歩ける準備もできた。
君はボクを見つけてくれた。
でも、君があきらめたことはボクは知っているよ。
だから、君が手にとらなくてもどうってことはないんだ。



あるオジチャン的な「師匠」は言った。

「逃げていると、何度も何度も追いかけてくる。」

その時、私は「苦痛や苦手で避けていること」を想像した。
だから、逃げてはいけないんだ、と自分に言い聞かせた。

でもそれは少し意味が違うことを学んだ。
自分が近づきたい、求めたいという対象の方から近づいてきている直感、感性向上の練習が「逃げずにどう受け止めるか」につながるのであって、憎しみ、恨みを抱かずに我慢してその場に居続けることを強要しているという意味ではないということ。


あきらめたと自分が思った対象にも出逢えたという経験。

「どうせ私にはできない」と思ってあきらめていることだって、向こうから近づいてくることだってあるのだ。

さて、どうする?


とりあえず、流れる季節の真ん中で、それでも出逢った本を読もう。







KAZU |MAIL