ふつうっぽい日記
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2011年03月11日(金) 結婚式で涙を見せなかった父親を考察する

私は、ずっと不思議だった。

どうして父親が結婚式で泣かなかったのか。

ずっと、気になっていた。


物心ついてから一緒に暮らしてきていると、だいたいの行動は推測できて、だいたいそのようになる。そして、父親を知る多くの人から「絶対、君のお父さんは泣くね」と推測されてきた。

替え歌ではないが、「結婚式で泣かないと冷たい人と言われそう」ではないが、自然な流れとして彼がそうなるのではないか、そうあってほしい、そうなるんじゃないかな、そうであると都合がいい、そうであるとホッとするのに…。という気持ちがあった。
照れ笑いをしながら、お互いにお互いの「家族」の歩む道を認め会えたら楽だっただろうな…という一方的な筋書きだ。

でも、現実はそうはいかない。


養老氏の本を読んでいて、ふと繋がった(ような気がした)

養老氏は4歳の頃に父親を亡くしてある。享年33歳。
結核で、「お別れしなさい」との周りの声もありながらも、少年は動揺を隠せない。
そのうち、父親はニコッと笑って喀血したのだそうだ。
周りの人々が悼んで泣いているのにも関わらず、泣けない自分がいた。
それから数十年だって、いきなり泣いたという。
そのエピソードで「挨拶」にも触れていた。
氏は人を見てすれ違いながらも挨拶をしなかったという。
挨拶をする、ということは父親の死を受け入れるということで、そうしないことで自分を守っていた。それほどに「死」に対しての恐怖感があった。
「死体」を相手にする学問に進んだのもそのことが繋がっているのだろうといったことも書かれてあった。


我が父親は、私の祖父つまり父親の実の父親に挨拶ができなかったのだ。
私もできなかった。
妹もできなかった。
母だけが「挨拶」をした。

私ができなかったことの要因は今の幸福に繋がっている。
道を選んだ、ということだ。

父はアメリカにいた。
妹は入院していた。
私は青森にいた。
スキーを堪能し、酒を飲んでいた。

気丈であったのは、母親ともいえる。

後日、父と私は焼香に行った。


父は祖父の喪の作業を行えただろうか。



そして、さらに考察する。
私の生まれ育った家庭には「挨拶」が「お休み」以外しか定着していなかった(と思う)

「ちゃんと挨拶をしなさい」と外で他の誰かと両親と私が一緒の時に言われて何度か戸惑ったことを覚えている。

「ちゃんと」自覚して挨拶ができるようになったのは、学生時代アルバイトをしてからだったと思う。「社会」で学んだ。

「ありがとう」と言うのも機会を逃すことが多かった。
「ごめんなさい」もそうだった。
育った家庭での親子関係に「ありがとう」「ごめんなさい」は、なかった。
両親の会話でもそういったやりとりを聞いたことはない。

きょうだいケンカで謝らせられることはあったが。

ところで、妻であり、母親である人が、夫であり父親である人に謝る時、どういう台詞をはくのだろう。逆であってもいい。

「あなた、ゴメンナサイ」(「君、ごめん」)?
「パパ、ごめんなさい」(「ママ、ごめんなさい」)?
「お父さん、ごめんなさい」(「お母さん、ごめんなさい」)?
「太郎さん、ごめんなさい」(「花子、ごめんなさい」)?



ーーー

結婚するということは、「別れの練習」の一つだと思う。

「別れ」とは親しい誰かを送る、という意味で。
分かりやすく言うと、喪の作業への心の準備。

遠方へ嫁がせる親としては、空きの巣となった家庭の受容課題。

いろんな感情を消化して、やがて、それぞれの人生を大切に歩いて行くのだ、ということを人生の節目で知るのだろう。




沖縄のお墓が、標準になればいいのになぁ…。
それか、死者を弔う時、鈴をならして参列する文化。


KAZU |MAIL