ふつうっぽい日記
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2011年03月13日(日) 見守られていることと感謝と情報と

海外からの支援。
被災者の内部からの自発的コミュニティの形成。

今日で三日目にあたり、「日本の政府は〜!」との憤りのような声もラジオを通して聞こえてくるようになった。
部分的であれ断片的であれ海外へ発信される「情報」から「察する」「想像される」姿は、手を伸ばす準備をする行動に繋がっていて、あとは「具体的なGOサイン」を待つだけという状況に二日目に入った頃にはなっていたのかもしれないと思われた。
被害の規模が分からない状況にもかかわらず、海外からの支援の声に即座に「よろしく」を決断することを待つのはなぜだろう。「被害はそこまでじゃないかもしれない」との希望か。
最悪の事態の想定はなかったのだろうか。それよりも事実、情報としての確実さが先なのか。

一日目は呆然とただただ「なすすべもない」現実を知ることしかできない。
新聞記事コメントの言葉を借りるなら、「これはCGなんじゃないのか?」という予想外のリアルをただただ知らされる。

二日目、気持ちを同調するような言葉にできない気持ちでいっぱいで、励ますことも場違いで、別の土地での祝い事も慎まねばならない空気になる。切ない言葉のない音楽で現実を「受容」をすることを知る。

三日目、希望を持つように、そして、「ケア」という面でのサポートの必要性を共有する。
海外からのサポートや、全国的レベルで支援の動きが実行されるという知らせを共有する。
ラジオでは希望を持つように願いがこめられたリクエストが届く。
子どもに向けてアニメソングも流れる。
テレビでは厳しい現状が、広範囲で記録されたことが、繰り広げられる。
ラジオが出来ることを、ラジオがやる。

「情報」という言葉がよく出てくる。

「よく分からない状況」も「情報」だろう。

今日、三日目夕方頃「死者数万単位の可能性」と聞こえた。
可能性なら一日目の終わりでも二日目の始めでもあったはずで。


部分的な被害状況や映像が流される中、それが地図的位置的にどこからどの地区なのかが解説者も分かっていないことを視聴者は見る。
「これは森林か何かでしょうか」
それは、海岸部分だったことが後から分かった。
その映像を映したのは誰か。その映像の発する価値は何か。

自然の結果ではあるが、世界的に今、注目されている。
見守りや支援の対象となっている。
文化的規模の感謝と、この共生ともいえる形をしっかり覚えておきたい。


一人ではない。


「情報」の価値、意味について考えたいと思う今日である。





KAZU |MAIL