ふつうっぽい日記
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2011年03月15日(火) いつもと同じように居続ける

こういう時に、今ここに留まり続けることがなんだか申し訳なくて苦しい気がする。

ここで、思い出す。
「生きていて申し訳ないという感じです」と言っていた友人の言葉。

「生存」と近い場所にある人たちは選択肢もなくそこに居続けるしかない。

だからこそ、いつもと同じように留まり続け、居続けることは基本。
目の前で起こっていることは、距離があるにもかかわらず、「心が折れそう」になる。
ここで、折れないように踏ん張る。
ひたむきに。
申し訳なく生きるのは違う気がする。

どうってことない今日を過ごせることに感謝して、癒しの環境に恵まれていることに感謝して、包みこむエネルギーをチャージしたい。


ーーー
「道」に寄せる迷走

大きなことがあると、小さなことが隠れてしまう。
大きなことに対してのちっぽけな貢献の「道」。
小さなことに対してのパワフルな貢献の「道」。

大きい、小さいって何か。
何と比べているのだろう。

昨日の夜、福祉関係の番組で被災地の障害者の実態を少し見た。
自閉症の方々は避難の声に固まって動かなくなる。
寄り添う人は、「オヤジギャグ」を言って気持ちを和ませようとした。
でも、その寄り添う人も切なくなってくる。
そこにいて、寄り添い続けて、和ませ続けることのエネルギー、
寄り添う人にだって家族がある。
ジレンマに陥る。
いきなりの避難所での集団生活。
ある専門家は「チャンスです」と言っていた。
「避難所には障害者がいるということを知っておいたほうがいい」



先がよめる険しくないと分かっていそうな「道」にいることに気づいたとしても、小さくて気づかない課題をそれでも拾い上げ続けることも「道」。
誰かにとってそれは右側の「道」かもしれない。

右側、左側って何か。


「凡人」という自称も、何か。
「ちっぽけな自分」というのは誰と比べているのだろう。

そして、「道」なんて本当は自分が作っている観念的なもの。

「道」は自分が歩いた後ろ側にしかできない。

同じ「道」を毎日通っていても、道ばたのゴミを拾っているか。
道ばたに咲く花に気づいているか。
いつもあたりまえにそこにある「木」に気づいているか。


個人所有の押し入れの奥で眠る使い古しの毛布は何を温めるか。
できることの気持ちって何か。
善意は確実に届けたいと思う。
確実に届く道ができるのならば、「お取り寄せ」だって可能になっていく。
生活する基盤が整ってそこで上向きの経済を生産できるようになって地産地消できるようになることを願うのだとすれば、内側から外側へ、前向きに生き抜くエネルギーを信じてアシストしていくこと。
様々な善意をとりまとめて受け取ったからには届けないと気持ちがすまなくなる。

受け入れ体制はどうやって構築されていくのだろう。

陸路から、空から、海から。
本当に人々や物流が通る「道」を開くためにスキルを持った専門家が集う。
今は、受け入れ体制の「道」が開かれ繋がっていくことをただただ見守る。




KAZU |MAIL