ふつうっぽい日記
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2011年03月16日(水) 偶然はない

ひたむきに生きることを考えたい。


「幸運」なんてものはないというのは納得した。

次に「たまたま」とか「偶然」の持つ可能性に魅力を感じた。
それを拾い上げることや繋げることが楽しかった。
自分が必要だと思う「情報」が引き寄せられている、とさえ思えた。
浮かれていた。

そこへ「偶然はない」「起こるべくして起こった」という言葉を知る。

そこには残酷や悲劇であっても、「起こるべくして起こった」出来事であって、誰かや何かの仕業という視点はない。

癒すことができるとすれば、「無条件の愛」だという。


であるなら「たまたま」「偶然」、ヒトは死ぬことはない。



高柳和江 仙波純一 著 『かしこくなる患者学』 放送大学教育振興会 2007年
(182頁)
・「受精の瞬間から死は始まっているのである。こうした細胞が集まったものが臓器で、臓器の集まりを個体(ヒト)という。」
(188頁)
・「死における過程をキュプラー・ロスは、(1)否認ー自分自身を守る反応、(2)怒り、(3)取引、(4)抑うつ、絶望ー孤独、および(5)受容の5段階をたどるといった。実際には、このとおりの経過ではなく、行き来をするようになっている」

ーーー
思想的、宗教的な次元になってしまう。
そうなってしまうものなのかとも思える。

「出来ること」「祈るくらいしかできない」

「祈る」ことを知っているのは偶然ではない。


死者への弔いの時の「祈り」と「復興」や「希望」への「祈り」。
死んでもなお、「希望」への「祈り」をする。

「生」を継続していても、「死」の始まりであっても、そこには「希望」への「祈り」が「存在」している。であるのだから、「生」と「死」の間においても「希望」は「存在」するはずだ。

「死」の始まりの自覚(意識、主体)は、誰のものか。
誰が、「分かる」のだろう。
その「分かる」主体がいたとして、それは「希望」か「恐怖」か。

誰も「死」が分かる主体の「存在」は知らない。
よって、「感情」も分かるはずはない。

分かるはずのない「感情」だから、「恐怖」なのか。
「恐怖」が分かる「感情」が「分かる」主体は、「恐怖」なのか。



「事実と向き合っていくこと」

「事実」とは何か。
「事実」とは普遍的なものか。
「事実」とは惨劇の実態のことか。
「事実」とは必要なことについて考えることか。
「事実」とは麻痺していく、悪い影響が出てくることを知ることか。

「事実」はどうやって分かるのか。
新聞、テレビ、うわさ、ラジオ、インターネット…。
その「事実」には「同一性」があるのか。それらをすべて「分かる」こと自体が「事実」なのか。

どうやって「向き合って」いくのか。
自分とその他の人と論議することなのか。
「事実」と接することなのか
「事実」に関わることなのか
「事実」を知ることなのか

「向き合う」とは考えることなのか

であるなら「事実」を考えることなのか
「事実」は考えることなのか


「向き合った」先にあるものの一つが「祈り」のような気がする。
一つの「宗教」集団属していない「自称無宗教」であっても「祈り」を抱く。

宗教観を持つこと、「祈り」観を持つことが「出来ること」に繋がっていそうである。
であるならば、どうやって「宗教観」「祈り」観を自分の中に取り込んでいくか。



「いったい何なのか」

それぞれが「出来ること」を考える個体である自覚があるとき、それぞれの自覚でもって、起こった出来事を受け止めた自覚でもって、それぞれの自覚が直感的に思った「何か」について、「いったい何なのか」への関心を行動に起こすことが「出来ること」


「いのちとは何なのか」
「放射能とは何なのか」
「人生とは何なのか」
「崩壊からの出発とは何なのか」
「心とは何なのか」

…。




行き詰まった時、私は「木」を観る。
「無意識」に「木」を観ていた時、何かに行き詰まっていることが「意識」できる。
「意識」されたことは「無意識」には戻らない。
そうやって、「無意識」を「意識」に広げる。
だからといって、ただただ「木」を観ても何も変わらない。


私は、ひたむきに生きながら、生きているという自覚を否定せず、考える主体であり続けたい。

穏やかな青空が広がる。
南にそびえる建物のてっぺんにカラスが一羽見える。
「彼」にとってはいつもの日常なのだろう。


KAZU |MAIL