ふつうっぽい日記
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ひたむきに生きることを考えたい。
「幸運」なんてものはないというのは納得した。
次に「たまたま」とか「偶然」の持つ可能性に魅力を感じた。 それを拾い上げることや繋げることが楽しかった。 自分が必要だと思う「情報」が引き寄せられている、とさえ思えた。 浮かれていた。
そこへ「偶然はない」「起こるべくして起こった」という言葉を知る。
そこには残酷や悲劇であっても、「起こるべくして起こった」出来事であって、誰かや何かの仕業という視点はない。
癒すことができるとすれば、「無条件の愛」だという。
であるなら「たまたま」「偶然」、ヒトは死ぬことはない。
高柳和江 仙波純一 著 『かしこくなる患者学』 放送大学教育振興会 2007年 (182頁) ・「受精の瞬間から死は始まっているのである。こうした細胞が集まったものが臓器で、臓器の集まりを個体(ヒト)という。」 (188頁) ・「死における過程をキュプラー・ロスは、(1)否認ー自分自身を守る反応、(2)怒り、(3)取引、(4)抑うつ、絶望ー孤独、および(5)受容の5段階をたどるといった。実際には、このとおりの経過ではなく、行き来をするようになっている」
ーーー 思想的、宗教的な次元になってしまう。 そうなってしまうものなのかとも思える。
「出来ること」「祈るくらいしかできない」
「祈る」ことを知っているのは偶然ではない。
死者への弔いの時の「祈り」と「復興」や「希望」への「祈り」。 死んでもなお、「希望」への「祈り」をする。
「生」を継続していても、「死」の始まりであっても、そこには「希望」への「祈り」が「存在」している。であるのだから、「生」と「死」の間においても「希望」は「存在」するはずだ。
「死」の始まりの自覚(意識、主体)は、誰のものか。 誰が、「分かる」のだろう。 その「分かる」主体がいたとして、それは「希望」か「恐怖」か。
誰も「死」が分かる主体の「存在」は知らない。 よって、「感情」も分かるはずはない。
分かるはずのない「感情」だから、「恐怖」なのか。 「恐怖」が分かる「感情」が「分かる」主体は、「恐怖」なのか。
「事実と向き合っていくこと」
「事実」とは何か。 「事実」とは普遍的なものか。 「事実」とは惨劇の実態のことか。 「事実」とは必要なことについて考えることか。 「事実」とは麻痺していく、悪い影響が出てくることを知ることか。
「事実」はどうやって分かるのか。 新聞、テレビ、うわさ、ラジオ、インターネット…。 その「事実」には「同一性」があるのか。それらをすべて「分かる」こと自体が「事実」なのか。
どうやって「向き合って」いくのか。 自分とその他の人と論議することなのか。 「事実」と接することなのか 「事実」に関わることなのか 「事実」を知ることなのか
「向き合う」とは考えることなのか
であるなら「事実」を考えることなのか 「事実」は考えることなのか
「向き合った」先にあるものの一つが「祈り」のような気がする。 一つの「宗教」集団属していない「自称無宗教」であっても「祈り」を抱く。
宗教観を持つこと、「祈り」観を持つことが「出来ること」に繋がっていそうである。 であるならば、どうやって「宗教観」「祈り」観を自分の中に取り込んでいくか。
「いったい何なのか」
それぞれが「出来ること」を考える個体である自覚があるとき、それぞれの自覚でもって、起こった出来事を受け止めた自覚でもって、それぞれの自覚が直感的に思った「何か」について、「いったい何なのか」への関心を行動に起こすことが「出来ること」
「いのちとは何なのか」 「放射能とは何なのか」 「人生とは何なのか」 「崩壊からの出発とは何なのか」 「心とは何なのか」
…。
行き詰まった時、私は「木」を観る。 「無意識」に「木」を観ていた時、何かに行き詰まっていることが「意識」できる。 「意識」されたことは「無意識」には戻らない。 そうやって、「無意識」を「意識」に広げる。 だからといって、ただただ「木」を観ても何も変わらない。
私は、ひたむきに生きながら、生きているという自覚を否定せず、考える主体であり続けたい。
穏やかな青空が広がる。 南にそびえる建物のてっぺんにカラスが一羽見える。 「彼」にとってはいつもの日常なのだろう。
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