ふつうっぽい日記
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ここから見える「木」はいくつかあるが、いくつかある、という存在に気づけたのは、1本の「木」を集中して見ていたからだ、ということに気付いた。
これは、「人」に気付くことや理解していく視点に似ている気がする。
がっつり、どっぷりとある一人に集中して寄り添い、見守れた経験。 ちゃんと意味があったのだと今、とくに思える。
その体制、制度は、原則一人に寄り添い見守り支援する、というものであった。しかし、状況によっては多くを広く浅くとりあえず見守る、ということもありえた。
私にとっては必要な段取りであったと思う。
勝手なもので、一人に集中する途中の段階で、他の子にも寄り添い見守り関わりたい思いが膨らみ、もどかしく、落ち着かない気持ちを持った。 「あの子も、この子も、その子も、見守りを必要としている!」という声なき声を感じたのだ。
その声は聴こえるべくして聴こえてきたと思われる。
しかし、子どもは賢いもので、そのあたりを察知して挑んでくる。 いや、子どもの立場では、さりげない、それでいて特別な存在であり続けてほしいという希望を持ち続けていいのか、いけないのか、信じていいのか、信じないほうがいいのかという課題に向き合っているという方が近いかもしれない。
どうせ、この大人も…。
大人が「見守る」という行動も、子どもの立場にすれば「見守られている」。信頼の基盤になる。
独占したい気持ちと対峙しつつも、「この人は、他の友達とどんなことを話してどんな遊びをしているのか」という興味は広がり、今度は子どもが「さりげなく、それでいて特別に」その大人を観察する。 そこに、一貫性が感じられると、一つの大人のモデルのようなものが作られて、それに似た別の対象を探すきっかけとなるのかもしれない。
私は一人しかいないけど 私に似た人はたくさんいる
こんなことを誰かに言ったことがある。
人生において、理想的な「ホンモノ」のような「お手本」のような「モデル」(かたち)に出逢って、それを自分の中に取り込むことは衝撃的であり衝動的だ。
取り込まれた方はどうなのだろうか。
ーーー
その「木」は語りかけてきた(気がした)
私は誰かのための特別な「木」ではない。 今、私の存在を気にしている誰かについて何も知らない。 それでも、私はここで「木」であり続け、ここに居続けるだろう。 春が来て、そして、夏になれば、青々とした葉をつける 秋が来て、そして、冬がくれば、深い色の葉をつける。 そのいとなみは、自然の法則だ。 葉をゆらす暖かな風、冷たい風。 自然の音や匂いや色や光を、私はここで届け続ける。 一枚一枚の葉、繋がり分かれる枝、そして根。 たましいは木の根から生まれる。
「木」に惹かれる私の「いのち」は まだまだ始まったばかりなのかもしれない。
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