ふつうっぽい日記
もくじ|過去|未来
週一度、クリーニング屋に行っている。 自宅も兼ねているその店舗には、子どもがいる。 看板娘は50代ー60代と思われる女性。 彼女は、子どもの祖母であるらしい。
小さなその子どもを見たのは二度目。 一度目は二ヶ月くらい前だった記憶である。
一度目の時も、小さなその子は店内にある鉄棒でひそかな得意技を披露してくれた。 そばで見守る女性は、穏やかだった。 しかし、危険な一瞬は見逃さず適切な叱りを与えていたことを覚えている。
こういう類ではなかった。
「お客さんが、びっくりするでしょう?」 「お客さんがおかしいって見てるよぉ」 「おばあちゃん、恥ずかしぃ」
一度目の時、小さなその子は、私が「こんにちは」と言うと、「おばあちゃん。おきゃくさぁん!」と言った。
二度目の時、私が「こんにちは」と言って店内に入ると、小さなその子は私をしっかり見つめて「こんにちは」と言った。 二ヶ月前の子と同一人物であることは分かったが、成長を感じた。 二度目の時、小さなその子は、「おばあちゃん」とは呼ばなかった。 やがて、「おばあちゃん」が来た。 小さなその子は、縄跳びを鉄棒に巻き付けようとしていた。 その姿は懐かしかった。
「おばあちゃん」は、「どう考えてもその縄跳びはあなたの体重を支えることはできないでしょう」と言った。
小さなその子は「幼稚園でみんなしているよ」と言う。 続けて 「でも、先生から怒られよるとよ。そんなこと、しちゃだめぇって」
「おばあちゃん」は、「そうでしょう。だったら…」
小さな子は、「でも、みんなしよるとよ」と言って、笑顔。
そう。 何か注意を受けた時、怒られた時、それが他の人にも同じように影響を与えるものなのか、人を変え、場所を変え、試すのが子どもである。 毎回同じ人がその場に立ち会うわけではないのであり、「過去に怒られた惨めな自分」を知らない記憶にもできる。
小さなその子の無邪気さ、素直さ。 「過去に怒られた惨めな自分」をも笑顔で告白する、純粋さ。 そこには、「納得」もあるのだろう。
ーー 「過去に怒られた惨めな自分」に「納得」がいかない状況もありうる。 「意味が分からない!」 意味が分からぬままに怒られ続けるこの「僕」「私」。
この大人も、あの大人と同じようにどうせ怒るのだろう! ほら、やっぱり!
この連続は「形」になり、悲しい「基本」として定着していることがある。
「どうして、先生は怒らないの?」 と、言われたことが何度もある。
「怒るのも愛情だよ」と言われたこともある。 その人は、おそらく、自分だったら怒るのに穏やかにその場に居続けることが「意味不明」だったのかもしれない。
私には意味があった。 その子が怒られている現場を何度も見ていた。 だからといって、その場で怒っていた大人を引き継いで怒る理由はなかった。 怒りたい気持ちを説明することもしなかった。
そうしたら、現実、どんなことになってしまうのか。 そうしたら、私はどれほど私の気持ちは切なくなってしまうのか。 これらについて、想像を働かせて語りかけることをしていた。
高いところに上る衝動。 ひとまずのその行動を制止することを多くの大人がしていて多くのエネルギーを費やしている姿を私は見ていた。 20人いて19人が高いところに上れば上らない方が目立つ。 その逆である。 なぜボク以外は高いところに上らずにおられるのかについての懐疑。 その闘いの想像が私の中には走っていた。 私もそのボクと同じくその高いところの空気を共にやり過ごしてみる、というのも一つの手ではあった。 私は彼が降りたいと言った時にいつでも降りられるハシゴになろうと思った。
どうぞ、降りたくなったらお知らせください!
やや。楽しく、君は上っていたではないですか! 同じように降りればよいではないですか!
考えて! 考えてみて!
心で叫ぶ。 念じる。
上っている子「うー。うー。降りられなくなったよぅ」
ハシゴ「どうぞどうぞ。椅子をお持ちいたしましたよ。右足をこちらにそして左足を」
上っていたが降りた子「やった!死ぬかと思った!」
もはやハシゴではない大人「ケガはないですか。しかし、降りられてよかった。」
ただ、何かしら分からぬ動機で高いところに上ってしまったが、無事に降りることができた、その動きをやったある一人の子ども。
私の経験した多くがそういう場から始まる人間関係ゆえに、いきなり怒る、とりあえず怒るということはないのだ。
ーーー
小さなガイドは、純粋な笑顔で、澄んだ瞳で、私の途中経過を観察に来たような気がした。
人間の外側を借りて、実のところ、「いのち」「たましい」の内部の微妙な存在同士が微妙に交信しているような不思議な感覚を持った。
時間は確実に進んでいる。
|