ふつうっぽい日記
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2011年04月01日(金) 「新年度」

この春の時期。
期待と不安の入り交じる、スタートの時期であることも多い。

「新年度」が4月からというのと、「新年」が1月からというのに、意味が分からない時期があったことを思い出す。
「年度」という区切りが「新年」で「年」が一つ増えるのに、そのままであるというのがなんとも意味が分からなかった。
海外では9月からがスタートの時期なんていうのを聞いたりすると、ますますその意味が分からなくなった。

22年度卒業生。卒業したのは23年の3月某。

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「早生まれ」というのも、意味が分からなかった。
3月末に誕生日である私は、「学年」でいうところの後の方(遅い方)なので「劣等感」さえもっていた。
しかし、意味が分からない中で、「早生まれ」の「早」という文字にほのかに安堵感も抱いたこともないことはなかった。

「遅い」より「早い」というのがなんだかよさそうだ、という物差し。

人生を過ごす中で、「回り道」もまた人生の奥行きを出す、なんていう言葉に触れて、考え方は一つではないことを知った。

「早期−(なんとか)」
発達の早い時期に出会わせておくこと。

例えば小さな子が流暢に「英語」を話す様は、お見事に映る。
その子等が「親」になった時、その「英語」はどのように影響しているだろう。
その「親」となった「子」にも、やはり「早期ー(なんとか)」の方針や精神は引き継がれているのだろうか。
そも、その「早期−(なんとか)」の方針や精神というものによって学びの環境に誘導されたのだ、という感覚、自覚、意識というのはかつて「小さな子」であった人間はどのように受け入れるのだろう。

こうあれこれ謎を抱くのは、「早期−(なんとか)」にどこか「憧れ」のようなものがあるのだろう。

受け入れ方は時の経過とともに、移ろっていくのだろうが、選択肢が広がるという感覚が分かればゆったりと人生を送れるのかもしれない。


疾病に関する「早期ー(なんとか)」もまた、治療の選択肢が広がるという視点で、心身の「心」に多少のゆとりが持てて、「身」の確実な揺らぎをゆったりと自覚(受容)できていくのかもしれない。

「受容」の段階が「痛み」と向き合う時期。


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「遅咲き−(なんとか)」
この境界もまた微妙だ。
「最年少」「標準」

極端な例に注目される。
「最年少」と「遅咲き−(なんとか)」の間が「標準」か。
だとしたら、「標準」の帯はおそらく広くなっている。

はは。なるほど。
かつての「境目」だったところがずれていくわけだ。


「最年少」と「遅咲き−(なんとか)」
「最年少」が「早期−(なんとか)」の結果だとしたら、期待したくなる。
「遅咲き−(なんとか)」にも、大いに期待したくなる。

そして、自分にも期待できそうに思えてくる。




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「新年度」が4月からスタートする。
5月は「五月病」の5月。
9月より新年度スタートだったら「十月病」なのか。
季節は秋で、まぁ、どっちつかず。
春と秋は暑い夏と寒い冬、寒い冬と暑い夏の中間、境目なので「微妙」とすると納得がいくからそうなのだろうか。


「自然」(季節)の流れに同調できるから都合がいいのか。

「そういう時期なのだから、まともじゃなくても、ちっとも変じゃない」

こうも考えられる。
「自然」(季節)の流れに同調してないような時期、五月、十月以外のいつでも、「病」になったとしたら、同調の流れをも超越するほどなのだから、

「そういう時期にそうなのだから、まともじゃなくても、ちっとも変じゃない」



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「新年度」スタート。

茶色の木肌からピンクの花をつけるあの木は、気づくと緑色の葉を付ける。
ピンク色の花びらを豪快に落としまき散らしながら。

この自信のなさ、不安との対峙、これがとにもかくにも行動することで意識されなくなるとき、フッと立ち止まることを忘れずにいたい。

今日は快晴。
久々に外での読書が楽しめそうな今日である。



KAZU |MAIL