ふつうっぽい日記
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2011年04月04日(月) |
学びは続く、どこまでも |
その始まりは、「分からない」
一番最初に「学び方」を教えてくれたのは誰なのか。 「それぞ、学びの姿」と教えてくれたのは誰なのか。
ただ、「教えてくれた」と思っているのは私自身の中にある。
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大きな出来事(happening)があると、小さな出来事が見えにくくなる。
山の景色、森の景色を遠くから見ていても、身近な一本の木の「存在」に気づかないことはよくあることだ、と、多くの人は多分「知っている」
「あの木は今日もそこにいる」と意識し始めて、気づいた別の木の近くに花をつけた小さな木の「存在」に気づいた。土との境目の様子から、最近植樹したものではないと思われた。
同じ景色の中で、新たにその「存在」に気づく様々な自然。
そうさせたのは、大きな出来事(happening)だ。
地震関連が練り込まれた言葉には、「被災者(個人、複数)」、「そうではない者」との立ち位置から間違いなくその表現は異なる。内容も異なる。視点も異なる。 「祈り」の想いの切り口も異なる。
ある出来事から学べるのは人間の特性、能力ではある。 「学ばせてもらった。」と一段落するのはまだまだ早いのだ、と気づく。
「被災者の立場になって考える」とは、ひたすら「察する」ことを続けることしかない気がする。 その「察する」場所は移動することもありうる。 「察する」ための「材料」みたいなものは、これも人それぞれ。
自助、共助、公助。
メディアで「自助」の「存在」が伝わるようになった。 そこに希望を感じた。 「自助」(最小単位は一個人)活動を支えるために、民間(国民、一個人の複数)からの寄付を活かしてほしいと思った。 「活かし」の経過の様子を見届ける権利が寄付をした人間には与えられるのだと考えたい。 「責任がある」と考えると少々重い。「存在」の距離が遠い。 その様子は「情報」から読み取ることになるのだろうと「察する」
それは5年後かも知れないし10年後かも知れない。
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「いのち」が関わるhappening。 学びの「きっかけ」はいつでも何度でもやってくる。
父親不在。 母親自殺。 子どもも「いのち」を落とす。
母親、精神障害。 子どもに、揺らぎの種を蒔く。
母親の声は、誰がどのように聴いている? 子どもの声は、いったい誰が聴く。
大きなhappeningがどれくらい衝撃を与えたかについての情報がどれくらい増えれば、「日本人みんな」が、小さい「いのち」の大切さを学べるというのだろう。
「日本人みんな」「一つになる」 その先には何がある。 その前に何がある。
小さい「いのち」は大きくなる。 やがて必ず誰かを支える人に育っていく。 小さい「いのち」を守ることは支える人の成長を支えること。
小さい「いのち」は必ず大きくなる。 やがて必ず誰かを支える人の成長を見守る。
「いのち」が生まれる理由は必ず「存在」する。 だから「いのち」が「存在」する。 だから「いのち」は生きることを知っている。
「いのち」の外側の見た目の皮。 「いのち」を包んでいる外側。 その皮や外側はまだ知らないかも知れないけど 内側の「いのち」は生きることを知っていることを知っておいた方がいい。
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