ふつうっぽい日記
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2011年04月07日(木) 「僕」「俺」「私」

ふと思ったこと。

「僕」「俺」「私」
台詞として全て言いそうなのは「男」である。
「俺」を使う人は「僕」を使うのだろうか、なんて想像する。
「僕」を使う人は「俺」を使うのだろうか、なんて想像する。

私が、文章として、「あ、いいな。」と思う人たちに何か特徴がないかなとぼんやりふり返ってみる。

「私」を主語にしている文章をどんどん巡らせていくうちに、ふと、「私個人」の近い出来事が語られる時に、その人たちは「僕」という表現をしてある(ような気がする)。
こういうこともある。小説で「私」を主語として、エッセーや随筆的な文章で「僕」を主語とする。


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小学生は、どうだろう。
男児は「俺」「僕」を使う。
どうも「私」というのは、女子っぽいからだろうか。

小さい子の「俺」っていうのは、なんとも可愛げを感じる。
そして、大物になりそうな男気のようなものも感じることがある。

そういえば、学校や学年や学級の方針にもよるのだろうが、一律に「さん」付けで呼ぶことが決められていることがある。

社会に出れば、多くが男性であれ女性であれ「さん」付けで呼ばれる。


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家庭内での「俺」「僕」「私」

夫、妻、二人暮らしから子どもが加わった時。

「これ、お父さんのでしょ?」
「ああ。父さんのだ」

「これ、お父さんのでしょ?」
「ああ。俺のだ」「ああ。私のだ。」


「僕」というのが私は想像できない。
「こだま」ではないが、「お父さん」と呼ばれたら同じように「お父さん」で返す、「パパ」と呼ばれたら「パパ」で返すという形がよくあるのかなぁ。


我が両親の会話を何気に聞くと、父は「俺」と言っている。母は多分「私」と言っている。

我が夫婦の会話ではどうだろうか。
夫は「俺」と言っている。私は「私」かというと、ちょっと違う。
この夫婦でしか通用しない呼称を使うことの方が多い。

私が子どもの頃からいいなぁと思っている叔父夫婦。
たしか、「さん」付けで呼んでいた。
我が両親では想像できなかったので、初めは異様に思えたが大切にされているような空気を幼心に感じたものだ。

そういう視点でみるのは、我が両親「夫」と「妻」の関係以外にも私が「子」であるところの「親子」関係をふり返ることが多かったからだ。

同時期に複数の兄弟や姉妹関係が成立する以外の場面では、まずは「一人」から始まる。
その後、「二人」「三人」となっていく。
「一人」であるときに、は「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」なんておそらく呼ばないだろう。
おそらく「名前」で呼ばれていたはずである。
「一人」の状態が3年以上続く場合と、1年や2年であった場合、後々「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」と呼ばれるようになっても、前者は「名前で呼んでくれていた」という実感は心地よい基盤になっているのではないかと想像した。
「物心」というのが3歳くらいなのかな、とした場合であるが。


私には2歳下の妹がいるが、妹は今でも「名前+ちゃん」で呼ばれている。
そして、さすがに最近は戸惑いも伝わるが自分でも「名前+ちゃん」と呼ぶことは家庭の中では自然であった。

私は物心ついた時から今に至るまで「お姉ちゃん」なのである。
ここで、大胆な発想をしてみる。
「おねえ」…「緒祢江」「緒音絵」(フリガナはオネエ)
名前自体を「おねえ」にすると、「一人」の状態が1年であれ普遍であれずっと「おねえちゃん」または「おねえ」と呼ばれるのではないか?!
「二人目」や「三人目」にこの名前を適用すると、やっかいそうであるが。

で、私の「テーマ」が顔を出す。
今さら、両親が私の「名前」を呼び捨てしてくるという違和感。
両親二人の関係においては、私が登場する際、もしかしたら「名前」呼び捨てをしてきたのかもしれない。でも、私が立ち聞きする限りでは「お姉ちゃん」だった。

不思議なことに、友人から「名前」で呼ばれるのは自然であり、むしろとても嬉しい。
中学時代は、憧れの「名前」呼び捨てが当たり前の世界だった。
しかし、私の中ではそれは当たり前ではない世界であって、一つのハードルを越えたのだ。
課題をクリアした、というか。
親子関係より友情関係が中心になる思春期というものを私が後からふり返るとき、その「どう呼ばれていたか」というエピソードが必ず想起されるのだった。


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「私」と「僕」を使い分けている人の文章がどうも私には惹かれるようである。
「僕」には「少年時代」(あの頃、その頃)を一緒に共有させてもらえるような、ほんわかするような気持ちがほんわかと引き出されるのだろうな。


ほんわか。
春の陽気は「僕」を敏感にさせる。

私も「僕」があればいいなぁ。


KAZU |MAIL