ふつうっぽい日記
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2011年04月08日(金) 「これは何でできているのか」

「これは何でできているのか」
もう少し、長く解説するような表現にするなら「これはどんな素材から作られているのか」。
「どうして、なぜ、できているのか」ではなく。


私はこの「これは何でできているのか」という問いかけを自分にすることで、「恐怖心」から逃れようとした経験があることを覚えている。
その「恐怖心」と対峙したのは、小学6年生。

どうして6年生だと覚えているかというと、その場を共にした親しいメンバーを思い出すとそのメンバーが5年生であったことを覚えているからである。そのメンバーとは1歳違い、つまり私が1歳上であったことを覚えているからである。

「どうして、覚えているか」については、一貫性はないのが「ふつう」と思われる。

そして、「これは何でできているのか」という言葉を覚えているのは、メンバーにそのことを伝えた時に笑われたからである。「嘲笑」の類ではなく、私の発想の意外性に思わず笑わずにおれなかった状況であった。

それでは、いったいどういう「恐怖心」と対峙したのか。
その状況はどんな具合であったのか。


それは学外サークルのようなものでのキャンプ。
親は同伴しない。
世話係は大学生など社会人。

山の中の夜というのは非常にただそれだけで怖さを演出する。
「暗さ」も際立つ。
「肝試し」というプログラムもあったが、それに関してはどさくさに紛れて男子の手を繋いだ、という記憶に留まっている。それは、「恐怖心」がテーマとはされなかった。

夜、テントの中。
世話係の大学生が懐中電灯を巧みに操り、「語る」ことを始める。

この「語る」こと。
家族とは遠い場所で、しかも暗い山の中で語られるというのはもうそれはすごい臨場感。
「語る」ことをする人についての情報もほとんど取り込まれていない中で、「聞かされる」という位置関係。一対一だったら、その瞬間に泣いていたかも知れない。
しかし、キャンプというイベント。
親しいメンバーと一緒の場で「聞かされる」という安心感は一応ある。
しかし、「一応」。
想像は聞く側に委ねられ、懐中電灯の「光」によって、それぞれの「恐怖」の想像が語られる言葉以上に迫ってくる。

私は、「ダメだ」と思った。
でも、そこから一人外へ逃げ出すことはもっと「恐怖」だ。
そして、「泣く」なんてことも出来ない。

私は、テントの内側を見つめ続けた。
別のところに意識を集中させようと試みた。
だただたテントの内側を見続けた。
しかし、耳から入ってくる言葉は想像力をかき立てないわけにはいかなかった。

そこで私は、テントの内側を見つめながら「これは何でできているのか」について考えることを始めた。「色」からする仮説、「見た目の質感」からする仮説。

変な人以外にどう定義すればいいのか分からなくなる気がする。
若干、小6。

功を奏し、語られる内容についての恐怖心から逃げることができた。
しかし、メンバーと「怖かったよね」という「共感」を共有できないという悲しい現実があった。
しかし、私はハハハと笑い、「これは何でできているのかって考えていた」ことを打ち明けた。
「そんなこと、考えよったと?」の後に、想像をしたようで、笑いを引き出し、メンバーの内の一人は後日「私も考えてた」なんぞ言い出した(これは多分、ウソだろう)



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様々な場面で引き出されるべき、乗っかっている気持ちのようなもの。

「逃げていると、どこまでも追いかけてきますよ。」


小6で技として発見獲得した、逃避のための「形」(手段)は、しばらく私の中で基盤となっていた。この「形」(手段)の揺らぎ、崩壊は「三十七歳の乱」として確実に刻まれることになるとは小6の私は知るよしもなかった。


新しい秩序が確立されるためには、正しく混乱が体験されることである。


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今日は、本当の日付は4月7日時間は午後1時40分頃。
明日は集中したいことがあるため未来的な日付として入力した。


KAZU |MAIL