ふつうっぽい日記
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2011年04月10日(日) |
「過程や行為の尊さを認め伝える」 |
今回のタイトルは「発達障害の子がいる学級経営のコツ」という連載が載っている雑誌をぼーっとしてめくっていて目に入った言葉の表現の一部分である。 「教室は間違えてよい場所に」という項目の中の最初に書かれてある。
「教室は間違うところです!」 「失敗することは勉強です!」 何度となく聞かされたし、聞いてきた言葉なので「全ての授業の基礎として」というもう一つ外側の項目も、はいはい…と読み流されても「ふつう」であるだろう。
それを間違いだとも厚かましいともせず、「ふつう」を広げるために、「ふつう」をあえて立ち止まり、その続きを進むために流れた考えのような思いのようなものについて書いてみることにする。
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「読書メモはするな」と、何かの本で見た。 「読書術」だとかそういうテーマで展開されていた文章であったかに記憶しているが細かいことは忘れた。つまり、メモはしていない。いや、この展開を言葉に綴った著者としては「それでいいのだ。満点である。」と評価に値するのかもしれない。
私は、最近、読書メモをすることが心地よいという状況にある。 「メモはするな」という親切な導きに反抗しているような行動である。
このことが無意味であるとしても、いや無意味であるからこそ、別にそのことをしてもあちら側からすると「無意味」であるだけでこちら側が「無意味ではない」であるに過ぎないのだからいいのだ。 ただしていない、ただやっているに過ぎない。
「そのことをして、よかったか悪かったか。」
そのことをやっていたときの自分が自分であったのならば、ズレていようがいまいが表現としての自分の「形」なのだからそこで立ち止まっても立ち止まらなくても自由なのである。
そのことをしたときの自分と「今、ここ」の自分の完全なる一致などおそらくありえない。 その違いを調査する必要も極端な揺らぎのある場合はありうるのです。
常時狂人。 その連続においてはそれがまさに常。 時として狂人。 それはそのまま時として狂人。 狂人の定義が自分を包括するものであったと追い込まれると狂人を超える狂人になりかねないと想像することは、おそらく妄想か、限りなく妄想に近い想像。
無害な狂人というのはあるのか。 有害であったろうと想像する狂人の時代。
始まりと終わりの意識をたとえ境目が分からなくとも区切ることのできた「今、ここ」
たしかに我、存在するなり。 次への狂人の始まりか 狂人をも愛し認める意識の始まりか。
ーーー 実は、偶然手にした文章のある一部分をタイトルにしてこれを書いた訳ではない。 ふとよぎった言葉をメモした後で、偶然手にした文章のある一部分をタイトルにできそうだと思い書き続けてみたに過ぎないのだ。
「正しいことの他に、頑張った過程や行為の尊さを認め伝える。」 教育雑誌は哲学的思索の友とするのはなかなか私にとって心地よい。
来週末から就職活動。 自分自身、つまり私が何をやりたいのか。 やってきたことを鳥瞰すると、同じ「形」を貫いてきていることに気づいた。 つまりはその「形」を粘り強く継続していくことなのだ。 「使命」というものがあるとすれば、これなのかもしれない。
あなたの上司やあなたの子どもの教師、あなたの親にもし不満があるのなら「疑問」に置き換えて、お尋ねしてはどうだろう。
即答できる人がホンモノとは限らない。 時間を与えていい。 充分に「考える」時間を与えるべきだ。 「考える」ことそのことをその人は知っているのか、分かっているのか。 「考える」ことをした表現の形が文章なのか発する言葉なのか音楽なのか数学なのか英語なのかは考える人に委ねられる。考えることを聴く人、考えることを理解する側にも歩み寄りが必要であると考える。
教員であれば大卒相応の教養があるはずなので、「あなたの哲学を知りたい」と迫ってもいいと思う。その哲学をあなたが理解できればその教員のことは理解できる気がする。 その教員のことを好きになろうと無理することはなく、仲介に何か少しでも理解できるものがお互いにつかず離れずの距離が取れるのではないだろうか。
その努力をするかしないかではまったく変わってくる。
私は「教員」という人たちとの関わりは難しいと思っている。 おそらくこれら教員にとっても私は理解が難しい存在であると思われる。 対教員との特別な関わりから私を理解してもらおうとするとおそろしくエネルギーを消耗するだろう。教員ではなくても。 場合によってはお金もかかるかもしれない。(「つきあい」)
私は短い実践の中で一つ試したことがある。
「どうも好かない人」 でも、その人を理解したかった。 その人の子どもを褒めてみた。 これはその人がその子を褒めることができないという点を増大させてしまったに過ぎなかったと映った。 次に、その子どもと関わるその人をフレームに入れて、「その人」の努力を第三者に伝えてみることを実施した。 第三者と私との信頼関係も試されることになる。 どうなったかというと、その人は私に心を開いてきたのだった。 その人と私の間に位置した子どもの存在。 「その人」が大人であり、大人との人間関係構築から始めるのは難しいが、子どもとの関係から、つまり、「私」と「子ども」の関わりの「形」が、第三者にとっては私に対しての評価の材料になり得るということを一つの例として私の中で刻まれた。
「あなたの哲学は」と聞かれて、「ニーチェにしようかプラトンにしようか」というのは話にならないのです。
私がある人を、いいな、と思う時、その人の哲学を知りたくなるのです。 好かないと思うときも、哲学を知りたいという気持ちを持っていたいと思った今日である。
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