ふつうっぽい日記
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2011年04月13日(水) 「悩むことと考えること」

「悩む」と「考える」は別物。
しかし、時間は共通に流れる。

同じような結果として「悩んだ末」「考えぬいた結果」どちらが自分にfitするか。

「悩み多き私の人生」「考え巡らせてきた私の人生」
「悩」と「脳」。心と臓器。

心は心で。
心を悩ませて堕ちるところまでいくか。
臓器の揺らぎのみつめあい。
察すること、腑に落ちるところまで受け入れる。

そこには、共通して「考えている」自分がいる。
「悩む」ときの「情」に揺らぐことが私には厳しい。
「情」に支配されるというのか、縛られるというのか。
しかし、「情」と対峙することを諦めたいとは考えない。
そこから脱したいという気持ちの存在は認めている。
とはいっても、「悩む」ことから、「情」の揺らぎから学ぶことはあった。

この「情」が「私」のものと受け入れることに時間がかかることを知ったからだ。
共通に流れる時間の意味づけが私にfitするのは「考える」ことをしている自分を受け入れること。
そこでの「情」の基盤は「理性の信」「学問の愛」。

ありのままの個人的な「情」ではあるが、その「情」は「私」という外側に、容れ物に入れられたゆえにアレンジされたものに過ぎないと考える。いや、「情」は一部分、一要素に過ぎないのかもしれない。

純粋なる「情」のようなもの、「情」を発生させる源のようなものは、おそらく自然や宇宙、そう桜が春に咲くように桜自身が決められないようなしくみ、リズム、そのものか一部かのようなもので、それを包んでいるかのような容れ物としての「私」にはとうてい改変することなどできるものではないのだろう。


「情」で桜は咲かない。
「情」のために「情」の願いを叶えるために咲いているのではない。
「情」は引き出される一つの「形」、「流れ」

「悩み」の「形」
その「形」のしくみそのものが「考える」そのもの。
「悩み」は「考える」ことに含まれると考えれば、「今、悩んでいる」であれ「今、考えている」であれ間違いということにはならない。

「悩んでいる」というのを「考えている」と解釈すればいいだけのことだ。
虫の好かない人が「悩んでいる」と言うときは、ただたんに「考えている」と置き換えると、「私」のfitする「こちら側」に存在させることができそうである。

「ありのまま」とは言葉として表現として使うが、「私」を支える「こちら側」で、それ(「ありのまま」)はどういうことを意味するのかという置き換えの努力は必要そうである。
その置き換えの努力が「楽」であるとか「簡単」であるという場合に「共感」を呼ぶのかも知れない。
置き換えの努力は意識されるものではないという前提において、前提そのものを意識しない次元において、「ありのままで」とか「ありのままを」なんて言葉として使われるのかもしれない。

私がいいなぁと思う人たちの「悩み」の「形」はきっと素晴らしいのだろう。
つまりは「考える」「形」が。



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来週、就職活動。
詳細情報は今週末分かることになっている。

自分を表現する練習として、夫の保険担当者との面談を受け入れた。
私は代理である。
何かの保険の契約をするのではなくて、現状の説明と今後の提案というやつである。
見ず知らずの人である存在とどう自分は対応していくのか、心を弛めていくのかの実地トレーニング。さすがに、仮説を書く、なんていうことはしなかった。
感性を、直感を試す。
さすが営業だが、2名の方、それぞれ個性があった。
よく喋る人、控えめな人。

控えめな人の歯が気になった。
ああ。
私も歯医者に行かなきゃならないと思い出した。

たかだか夫の保険担当の方ではあるが、その出逢いそのものを関わりの時間そのものを、対人理解の学習の場、と据える私という存在。
なかなか、学べそうな気がしてくる。

「あなた、保険の営業できそうですよ」などと言われる。
笑いながらでも、私は自分がこれからやっていくことについて、やり続けたいことについて、今日会ったばかりの人、それもただ事務的な人に語る「私」。

「通常の学校に入るんですか。障害っていうから養護学校みたいな特別な学校なのかなって思ったけど。そういう仕事があるんですね。知りませんでした。」

これは一つの啓発活動とも言えそうだ。
いい感じで、私の信念は私を巡っている。


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どうもこの「日記」は「日記」的な構造を持つが、そこは重要ではない気がしてきた。
今日は本当は4月12日。
時間は午後1時過ぎ。


KAZU |MAIL