ふつうっぽい日記
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2011年04月15日(金) |
自動思考に気づく一つの方法 |
おそらく、誰にも自分の考えるクセがあるはずだ。 そして、出来るならそのクセに気づきたいと思うのではないだろうか。 「それも私の個性」という受け取り方も一つにはあるとは思うが「広いところへ出てこられる」ために私は考えてみようと思う。
自分の考えるクセという意味で「自動思考」とここでは使っている。 他の表現にするなら、「考え方」の「形」の流れ方。 「考え方」の「形」というのは、考えるということをしていきながら展開されていく言葉の固まりの傾向の法則とでもいおうか。
認知療法領域での「自動思考」についてはここでは触れない。
さて、方法であるが自分にとって尊敬している人、経験豊富な知性の高いと思っている人、信頼できる人に手紙を書いてみる。「メール」でもいい。
たとえば学校という組織であれば、校長だとか教育長だとか立場も責任も確実に上の人。 「信頼できない」という気持ちがある場合は、その人は今自分にとって選ぶべき対象ではない、というただそれだけである。
慎重に考えながら書いていく。 何を書くのか。
「内容が浮かんでこない」 これは素直な状態とも取れる。 信頼できない訳ではないけれど、やはり選ぶべき対象ではないのかもしれない。
私は、尊敬している方ということで「忙しいと分かっていながらこのようにメールを書いています」と書きだしていた。
読んでもらえない場合はそれは忙しいからに過ぎないのだ、という理由づけの準備ができていますよーというこんな自分を分かって欲しいと伝えている。 受け取った方は、忙しいと分かっていると考えるならばメールなど書くなと言いたくなるだろう。 メールの返信をしようものなら、忙しくないということを認めてしまうことになる。 忙しい状態にない、ということにもなる。
だからといって、信念を持ち前進している人(尊敬に値する人)は、次世代育成に関心がないという訳ではないはずである。 大いに関心があるはずである。そうでなければたんなる自己満足に陶酔している近寄りがたい人のような存在かもしれない。
「信念を持ち前進している人」という言葉を使った。 私にとって、「尊敬に値する人」はそういう人である、ということだ。
では、その人たちはどうやって続く者を導いていくのだろう。 続く者が明らかに倒れている時、どん底、絶望感にうちひしがれている時、「その人たち」は決して放置しない。 放置されている感、つまり「私に何もしてくれない」というような気持ちを持つとしたら、「その人たち」は「尊敬に値する人」ではないことがある。
「その人たち」は、放置せず、どうするのか。 どう関わってくるのか。 これは、「その人たち」それぞれの「個人」の感性、直感が作用してくるのだと考えたい。 ちょっとした行動かもしれないし、言葉かもしれないし、それらから「私は、放置されていない!愛されている!」というメッセージを読み解くのは、倒れている、どん底、絶望感にうちひしがれているその人本人の仕事だ。
「その人たち」は、続く者が「前を向いて歩ける」ということをすでに見通している。 無条件の信頼、愛情。(理性の信、学問の愛)
倒れている、どん底、絶望感にうちひしがれている人が、たしかなメッセージを受け取れた時、少しずつ前進しようとし始める。その過程では自分を責めたり、尊敬に値すべき人のメッセージを素直に受け入れた自分に対する不信感から「尊敬に値すべき人」への反抗心などさまざまな気持ちが掻き出される。 その消化過程で、前を向くきっかけになった「たしかなメッセージ」の存在は極めて重要になる。
私の経験では、ある一つの絶望から確実に前を向くことに繋がった「形」は応用が効く存在になる。どういう意味かというと、その「形」に影響を与えた「信念を持ち前進している人」(一個人)は、1年後であれ、部署が変わって上司が替わったという場合であれ、自分の考えるクセを知りたいという時、その「信念を持ち前進している人」(一個人)を想定して手紙を書いてみる。「メール」でもいい。
定期的にその文章の変化が確認できるのなら、自分の自己成長のようなもの、自分の「考える」「形」のようなものが分かるのではないだろうか。
「自分自身を知ること」は、「考える」「形」を知ることなのかもしれない。 日々変容する、いや、刻々と変化していく流れの中で、焦らず「自分自身を知ること」を惜しまない粘り強い努力。 その延長におそらく「他者を知る」ということも絡んでいく気がする。
自分自身の「考えるしくみ」日々更新していきたい。
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