ふつうっぽい日記
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2011年04月21日(木) 「あたし」の誕生

今日の朝刊の人生相談のコーナーを読んでいて、相談に答える女性が「あたし」と称していることに目が向いた。
この人生相談コーナーは、時々今までも見てきたが、「あたし」という表現に気づいたのは今日。

そうか。
憧れの「僕」と対等になれそうなのは「あたし」なのかもしれない。
「俺」なのかもしれないけど。

「あたし」と「私」
仲良くなれそうな気がする。

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あたしが、ピュアな時期を過ごしたあの頃の季節が間もなくやってくる。
街路樹ハナミズキ。
あの町の花だったか木はハナミズキだった。
そして、5月に近かった。
5月だったかも知れない。

心が揺れていたあの時。
ハナミズキの歌詞を贈ってくださった方がいた。
あたしの心をその歌詞は貫通した。
巡った。
ハナミズキの歌がラジオで流れる度にあたしは泣いていた。
そして、同名の映画も上映され、あたしを愛する2人と一緒にその映画を観た。

あたしの2つ下のあたしによく似たあの子は、「愛が生まれた日」をあの子を愛する1人と何度も歌っていたっけ。


親子の愛。
どうなのだろう。
親が子に持つ愛情はいつから育まれるのだろう。
意識化されるのだろう。

子が親に対して「あたし(ぼく)は愛されているのだ」と実感するのはいつなのだろう。
あたしは、こう考える。
それは「ものごころ」ついた頃ではない。
親の存在に気づいた頃ではない。

もしかすると、子である「あたし」や「ぼく」が「親」という立場になると強く意識化できるのかもしれない。きっかけに繋がりやすいのかも知れない。

であれば、「親」という立場になる機会に恵まれていない時。
どうやって実感していくのか。


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こういうことなのかもしれない。
例えば宗教性の獲得。
1冊の「バイブル」の存在または多数の自分で選ぶ「バイブル的」な存在の違い。
1つの宗派に属するか無宗教として自分でなんだかの神性を取り込んでいくかの違い。
例えばある理論を学ぶ時。
1冊の難解な書籍を時間をかけて理解するか、何冊もの簡単な書籍を読んで理解していくか。

1つの学びを獲得するのに、1つの大きな経験から学ぶか100個の小さな経験から感じ取るか。

1つを大胆な行動でもって学び深めて行くか、こつこつ時間をかけて学び深めて行くか。

人生は一度きりだとか人生は短いとか時は金なりとか。

あたしは焦りたくない。
追い込みたくない。
だからといって、苦労したくないという甘い気持ちは持ちたくない。

「ゆっくり自分のペースでいいんだよ」
「あなたのやり方でいいんだよ」

そうだ。
そうだったのか。
こういう声かけを私は「特別支援教育」の現場で伝えてきた。
あたしも「ゆっくり自分のペースで」「あたしのやり方で」人生を楽しめばいいんだ。

「しなければいけない」「したほうがいい」「すべきだ」
しっかり自分で考えたい。
こう指導者から言われた場合。
「指導者から言われたからやるしかない」というのは依存だ。


しかし、こうも考えてみてもいい気がする。
「やってみたいとやってみた」とでは全く次元が違う。
そう、「やるしかない」と追い詰めるのではなく、「やってみたくなった」と想像の余地が膨らんでくれば「やってみたらいい」。
「やってみて」その後、どうだったのかが次なるモチベーションや新たな扉の模索に繋がる。

考える道の壁が少し優しくなれるような気がしてきた。
指導者のかける言葉には一つの「賭け」のような願いが込められているのだろう。


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ハナミズキの歌詞の贈り物に対するあたしの返歌は「プライド」だった。

今、心新たにその歌詞と歌を見つめてみた。
案外、あたしはまともだったのかもしれない。

「愛する」ことに気を取られて、「愛される」というメッセージに鈍感になっていたんだろう。
いや、「愛される」感覚、とらえ方、感性が生まれたのかもしれない。
「学習」「発達」したのかもしれない。37年の長い年月をかけて。

来月は「母の日」がある。
「愛される」ことがはっきり理解できた、あたしからの初めての感謝の気持ちを贈りたい。


KAZU |MAIL