ふつうっぽい日記
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2011年05月01日(日) |
自分の存在、他者の存在 |
あたしは、かつてある企業で物流的な事務処理の流れを作ることが目的という任務に関わったことがある。 流れを作った後は、他の人材に一切を任せるのである。
今思えば、結構貴重な経験である。 その任務の依頼主は、直属の課長や部長ではなく、いわゆる「本社」の課長という立場にある人だった。今思えば、その本社の課長は、あたしが結婚のため退職する時、わざわざ送別会に参加してくださっていた。「いかりや長介」氏にどこか似ている風貌で、虫が好かない課長部長連中も多かったと聞いたことがあった。
1台の特殊なパソコンを使って、それに組み込まれているシステムを使い、在庫管理をして、物品をメーカに送ったり、店に送ったりするのだ。 依頼主の課長は、システムでどういうことが出来るのかについて実演をしてみせて、「3日後にはこのシステムは修正が効かなくなるので、それまでに流れを作ってほしい。今日と明日は実験的にどこを操作してもらっても構わない。3日後には在庫管理データは0からスタートさせるから。」 というような事を言ってきた。
物品をメーカに送ったり、店に送ったりするためには、納品書等も必要になる。 それらの書類についてもゼロから構築せねばならなかった。
といっても、あたしが依頼されたことには意味があった。 意味というか基礎的な経験があった。 別の物流領域で、試行錯誤をしながらそういった流れを定着させていたからである。 流れ自体は、あたしが仕事として受ける以前に出来上がっていたので、いかに要領よくしていくか、別の人材に仕事を振るか、ということをしていた。 そういう姿をおそらく見抜かれていて、抜擢されたと思う。
ある一つの決められた業務を一人で責任をもってすることに優れる人、チームのリーダー的な立場で実力を発揮する人、業務を創造する人、なるべく面倒な業務を引き受けないように手持ちぶさたでありながら忙しく見せることができる人、正直に忙しい状況を周りに訴えることができる人、周りが忙しくても定時には帰ってしまう人、いろいろな人たちがいた。
これは企業に限ったことではないと思われる。
企業経営と公立の学校経営を比べること自体、おかしな次元だとは思うけど、企業で「売り上げ」や「出来高」向上の視点で組織と関わった経験があると「学校」という組織は、少し戸惑う。 逆もまたそうだろうが。
主役が、物(モノ)か人か。 モノはそれ自体には意識や意思はないので、動きを与えるのは必然的に人である。 管理に機械を使う場合でも「人」の存在無しには「モノ」は流れない。
企業で、「モノ」を動かしていく「人」は、「モノ」を動かせるスキルや技術があれば誰であっても評価される。
モノに人格はないのであり、モノから傷つけられたり、憎しみを抱くことはない。 (不注意な扱いによってケガをする、というのは別) よって、「対人関係」に少々課題を抱える人、コンプレックスがある人であっても充分に評価される。他にも例えば文字が書けなくてもパソコンで書類を作ることができればいい。
自分が属する組織での自分の存在の自覚と、関わる対象(モノ)の存在や価値が把握できればおそらく仕事として成立していくと思う。 ーーーー
関わる対象が「人」である時。(対人援助、対人支援)
他者の存在をどう位置づけることができるかによって、自分の存在が揺らぐ。 そして、その業務自体の意味も他者にとって分かりにくくなってしまう。
こういう話を聞いた。
「人」に対してサービスを提供する現場。 対「モノ」ではない現場である。 Aさんは資格も経験もなくその現場に飛び込んだ。 その現場はなかなか人材育成が進みにくく、なり手も少ないため、貴重な人材だった。 その現場を統括する立場である人も、Aさんをどう導いていくか試行錯誤だった。 Aさんの前にBさんという人材がいたが、Bさんの対人アプローチが果たして妥当な内容であるかも統括する人間にはよく分からなかった。 前任者であるBさんの業務日誌を、これから任務にあたるAさんに見せてそこから何だかの行動を起こすように促した統括する人間。
Aさんは、何度もBさんの業務日誌を読み返す。 しかし、Aさんはどういった行動をすればいいのかほとんど分からなかった。 その業務日誌には、Bさんが嬉しかったこと、楽しかったこと等、プラスの感情を抱くことができた時の、主としてBさんの存在価値をアピールするかのような内容が書かれてあっただけだった。
その後、Aさんは現場で、自分自身の存在を黒子のように、出来るだけ消えた存在になれるようにと努力をし、Aさんらしく援助していく型を作っていった。 結果として、Aさんへの組織での信頼は高くなり、統括する人間もAさんの価値を認め、統括する人間もスーパーバイザー的な役割を担っていくようになり、組織として成長していった。
ーーー 誰かの援助をする、支援をするというときは、「他者」への理解が避けて通れない。 「他者」から自分の中にある不快な感情を掻き出され、揺らぐこともあるだろう。 だからといって、その「他者」は自分を陥れようとして存在しているのではないのだ。 また、「他者」から自分の中にある心地よい感情を引き出してくれたとしても、その「他者」は自分の欲求を満たすためにそこに存在しているわけではないのだ。
不快な感情を掻き出されたトラブルやアクシデントにどう対峙して、どうその場を安定へと導いていくかその試行錯誤の過程を刻む業務日誌であってほしいと私は願う。
そして、そのような業務日誌を創造していきたいと私はここに決意したい。
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【参考文献】 ヘンリー・クラウド ジョン・タウンゼント (訳者)飯塚真奈美 『「人を殺してはいけない」と子どもに教えるには』 花風社 2000年
(9頁) 子どもの「性格」は子どもの「運命」を決定するのである。
(11頁) …性格は、人間関係の中でしか形成されない。
(14頁) 「してはいけないこと」と「しなくてはならないこと」の区別をはっきりさせるには、自分と他人との区別を知ることがまず第一歩だといえる。
(23頁) …自己中心的(エゴセントリック)な人にとっては自分だけが大事な人間である。周囲の人は自分の要求や欲求をかなえるためにのみ存在していると考えている。
(31頁) 人生は自分でコントロールし、努力して切り開いていくものである。 自分の才能を磨いて立ち向かっていくものである。何をするのか、決めるのは自分だ。 そして、結果に責任を持つのも自分だ。 それができない人は、たいてい、子どものときに自分から行動を始めることも、自分の仕事や目標を達成することも必要のなかった人である。誰かに自分の代わりをしてもらったり、最後まで成し遂げなくても見逃してもらったりしていた人である。
(33頁) …良い人にも悪いことは起こる。けれども、たとえ悪いことが起こっても、良いことをやり続けていれば必ず事態は前よりもよくなる。そして、思ってもみなかった幸運にめぐり合えることもある。
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