ふつうっぽい日記
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いただいた名札は「特別教育支援員」…
正解は「特別支援教育支援員」なのだが…
教務主任の先生あたりに「あ!今気づきました!」と近いうちに言ってみようと思うが忘れそうだ。
「特別教育」と「特別支援教育」は、やっぱり違う違う。 言わねば。 というか、「特別教育」って何だ?!
【子どもの言葉】
A君「先生、もしかしてスパイ?」 B君「ボクは違うと思う。だって、スパイだったら教室に戻れとか絶対言うはずやもん」
水ホース遊びに夢中。しかし、捕まえた虫も気になる。 捕まえた虫を別の誰かが奪い取ろうとしていたその時に。 支援員「水か虫、どっちか選びなさい!」 B君「…水!」 ☆私としては、水ホース遊びを止めさせたかった… まぁ、いいとする。 選べたB君に拍手だ。 この2択手法によって、私はのちに試されることになる。
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天気は雨とあって、外への飛び出しは控えめではあったけれど、彼らの動きは容赦ない。 でも、彼らは教室から見える場所で「活動」(時間割にはない)してくれるので目が行き届きやすい。今日は、私はあえて外に出なかった。 もし、出ていたら、外への飛び出しが公認&強化されてしまう可能性がある(誤学習)
私が彼らの「誘い」に乗らなくても、かんしゃくをおこしたり、パニックになるということはなかった。 集中タイムに入る前に有り余るエネルギーの発散処理をしようと彼らなりに奮闘しているのだ、と考えることにする。
今日は昨日よりもいいところがたくさん見ること(感じること)ができた気がした。
何よりも彼らの笑顔が素敵だった。 土を投げられた不快な一瞬も吹き飛ぶ。
<エピソード1>
学校設備や園芸領域のボランティアをかれこれ13年されてある方がおられる。子ども達からすると「おじいちゃん」的年齢層。
私が職員室に入室すると、そのボランティアさんと教務主任が語ってあり、ボランティアさんが憤ってぼやいておられた。
「水撒きホースをせっかく週末にきれいに巻いていたのに、悪そうするやつがおる。昨日見たら、大変なことになっとった。どこの誰じゃろう?!犯人を突き止めないといかん!」
私は言った。 「A君とB君が遊んでいました」
教務「A君、B君か… あいつらは、学校でも今、注目の存在やけんね。すぐに止めろって言っても、難しい。」
支援員「しばらく、時間がかかると思います」
ボランティアさん「13年間、子ども達を見ているけど、たしかに毎年、絶対、悪そうをする子はおるもんやけんね。そげん子なら、それでよかたい。 まだ、学校の外に出て行かんだけいいけんね。学校の外に出られたら、そらぁ、大変たい」
… このやりとりは私の中では極めて重要な位置づけ。 ボランティアさん、よくぞ、私の入室タイミングでこの話題をしてくださった。 この話題については支援員日誌に書かせていただいた。
こういった理解があるのとないのとではこの後の展開が大きく変わる。 子どもの自尊心に関わる。 もしも、ボランティアさんが水ホース遊びの現場に関わったとして、頭ごなしに叱るか、ちょっと温かく見守って諭すように声をかけるか。 ボランティアさんの温かい言葉が嬉しい。
<エピソード2>
A君:先生、おんぶして。 どうして、女の人は、おっぱいが膨らんでいるの?
支援員:それは、女の人だからです。(いたって冷静に。しかし、実際、リズミカルに胸部は揉まれるのであった…)
A君:先生が裸になるか、腕時計を渡すかどっちか選んで。(エヘヘと笑っている)
支援員:それは違うと思います(いたって冷静に) 先生はA君を信じているからそれは違うと思っています。 A君がいい子ということを先生は知っています。
A君:昼休み、約束だからね。
… 子ども支援に関わる中で、子どもからの素朴な質問は毎回バリエーションがあり、その度毎に「試されているなぁ」と実感する。 若い女性だったら、「キャー!」なんて黄色い声を出すのだろうか。 などと余計な想像もついてくるが、私は私で冷静に対応できた自分に自己成長を感じるのである。
質問されて分からないことだってあるが、その時はその時で素直にそう伝えれば必ずわかってくれるはずだ。 と、私は信じたいと考える。
【嬉しかったこと】 給食時間、管理職に混じり職員室で食べていたら、A君が一緒に食べたいと誘いに来たので、A君の交流学級教室に食べかけの給食を持って出向く。 周りの子達からも支援員の存在は大歓迎で、担任の先生のススメで自己紹介を実施。 「みんなの先生です。A君のお世話もしています。」 で、納得していた。 A君はとてもご機嫌。
お気に入りの先生として、認識が深められたと確信出来てから、「使える」ワザとしては… 例えば「約束」を守れなかったときの「罰」として、遊ぶ時間を短くする。 例えばよろしくない行動に立ち会ってしまったとき、「先生は悲しい気持ちがするからもう学校に行きたくないです」と賭けに出て、「分かったけん、もうせんけん。お願いだからまた来てー」と言わせるように仕向けるなど。
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今日は、「約束」を意識しながらA君は結構、努力していた。 昼休みに私の腕時計(A君にとっては魅力的に映るらしい)を触ってもいい(持ち歩く)ことを許可することをチラつかせ、「約束」に対してへこたれそうになる時に声掛け。「約束」を100%こなすことは目標にはできない。 A君は何度も「昼休み、貸してね。お願いよ」と念を押す。 この行動は、「信頼」を試している。 疑っているわけではない。 揺らぐ「信頼」と子どもは闘っているともいえる。
例えば、親の離婚を経験した子、家庭に事情を抱えている子。 複雑な環境で育っている子にとっては、切実な課題である。
話を戻す。 昼休みの約束は、何人かの大人が見守る中、実施された。 得意げに細い腕を出し、カッコイイ腕時計を装着される姿。 「約束を守ったら腕時計を昼休み貸してやろうって約束したもんね」と私はつぶやきながら。 すると、何人かの見守っていた大人が「あら〜よかったね〜」と声掛け。 さらに得意げになるA君。 腕時計を大切に扱わない訳がない(と、私は信じることが試される)
「昼休みが終わったら返しに来ること」という約束は忘れられた。 まぁ、良しとする。 A君なりのこだわりの方法で割とソフト*に返却してくれた。(*床に転がす)ぶつけられる様に投げて返却されるのではないか、という予想もあった。嬉しい裏切りである。
たった2日間での出来事。 いかに子どもと関わることが、人生に奥行きを与えてくれるかと、しみじみ思える幸せ。 といって、これは子育て経験がないことへの悲観的な想いを埋めているという意味ではない。 環境としての大人であることの幸せという意味である。
明日も頑張ろう。 楽しもう。
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