ふつうっぽい日記
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2011年06月16日(木) |
曖昧な点を繋いで物語る |
結構、突き詰めれば曖昧なことを、つじつまがなんとなく合うような気がするので繋げてまとまりにして、他者に語る、ということはよくあるのではないかと思う。
「そういうモンだと思っていた」というのは、私にとってはこの人無しには私の存在はなかったと確実に言える人が言ったセリフである。
いわゆる「思い込み」である。
「思い込み」と言われるのは、「冷静に考えるとそうとは限らないだろう」という内容だろうか。
「アタシったら、トンダ思い込みをしてたわ!」なんて言う時は、「思い込み」に気づけたアタシを前向きに受容できていると思える。 気づけばヨシなのか。 だとしたら、「思い込みなんて怖くない」「思い込むことなんて悪くない」
そんなもんサァ〜と、のほほんと過ごせそうな気がする。
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さて。 なんとも曖昧な前置き。
関わっている子どもの話である。
多動で衝動的で注意を引きたがるA君から、私はこう言われた。 「もう、キレイに分かりやすく片付けたりしないで!」
なかなか、これは後から考えさせられた言葉だった。
私たちは、出来るなら要領よくキレイに分かりやすい環境で、出来るなら脳機能もキレイに整理して物事に対処していきたいと思うのではないだろうか。
きれい好きだとか掃除好き、でない私はとくにそう思う。 出来れば大掃除をしなくてもこまめに整頓や掃除を日々こなし、片付いた環境に居続けたい。 片付けられない訳ではないが、億劫になる。
A君の行動はめまぐるしく移る。 ゆえにおそらく脳機能もめまぐるしく動きまくっているのだと思われる。(気がする) めまぐるしく行動するために脳機能が活発なのか、脳機能が活発だからめまぐるしく動かざるをえないのか。 とにかく落ち着かない動きに支配されているのがほとんどの日常ゆえに落ち着かない環境であることが落ち着くのだろうか。
「ふつう」人が落ち着く環境であることが落ち着かず、「ふつう」人が落ち着かない環境であることが落ち着くのか。
そんなA君の行動の軌跡をなんとなく繋げたくなった。 「軌跡」というのは、A君の周りの環境である。 「環境」というのは、例えば教室の机周辺である。 A君は「机」をよく自分でガーッと引きずって移動することが多い。
広い「箱庭」の中にいるような感じだなぁ…と、ふとしたときに私は思ってしまう。
といっても私の「箱庭」に関しての専門知識は無いに等しい。
A君の何気に発した言葉とA君の「環境」を繋ぎたくなった。
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A君「これでお父さんの席ができたよ」
「環境」 なぜか、A君は机二つと椅子二つを所有したがった。 今日は、机一つに椅子二つを配置。 椅子は二つ横にくっつけて、その背の部分に担任のフード付きの上着を掛けていた。
A君は最近、ケータイのオモチャで遊んでいる。 「はい、モシモシ…」と演じているのは、まるでサラリーマンのオヤジである。 耳に器用に挟んで、「こういう人っているよな…」という感じである。
一方で別の友達にそのケータイのオモチャを渡すときは「お母さんから電話だよ」とか「はい、これでお母さんに電話したらいいよ」などと言うのだ。 A君のケータイの相手は【お母さん】ではないし、話す自分自身も生活年齢の【子ども】とはかけ離れている。
そして、A君はちょくちょく「いたずら」が目立ち、教頭先生や校長先生から怒られる。 A君にしてみれば、「いたずら」しようと計画を立てて実行しているのではないとは思う。 「ふざけすぎた」ことは後からふり返ることができるのだと思う。 その時、分かってはいるけどやってしまう。
「家族」で「怒る」のは「親」であり、「親」の中でも「父親」が厳格なイメージがある。
教頭先生や校長先生、そして男の先生に「父親」のイメージを重ねているのかなぁと思った。
A君の詳細な家族環境は私には分からない。 だが、「父親は亡くなった」という話を聞いたことがある。 しかし、A君は運動会開催の前の時期に「お父さんが来れるかどうかが分からない…」と言っていた。A君の中で「父親の死」というのが受容できてない状態、受容しようとしている真っ最中なのかなと思ってしまう。
私もA君の枠からはみだしている行動に堪えかねて大きな声で叱ったことがあった。 その時、A君はシュンとしたり泣きそうな表情をするというよりは一瞬目を吊り上げるが嬉しそうな楽しそうな表情をするのだ。
A君にとって母親とは「怒られたら嫌だ」「喜ばせたい」存在。
思春期、反抗期と一般的に呼ばれる発達段階にある兄弟が母親を強く、歪に拒絶する光景も見ているA君。お下がりと思われる名前入りの日用品を見せて、「お兄ちゃんからもらったのかな?」と問えば、「いとこからもらった」と応えるA君。
A君の「器」は、思いの外、すでに大きいのかもしれない。
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ある臨床に関わる専門家の言葉を思い出す。 「親よりも明らかに器が大きい子どもがいる。 そういう子どもは、親から認めて欲しくても気づいてもらえない。 見ていて、これはとても辛い。」
私、個人として、この言葉は「腑に落ちる」類の表現だった。
そして、「これまでのことがあったから今がある」「目の前で起こった出来事は偶然ではない」というような言葉もそうである。
「心理学」という領域に教養的な程度であっても関わっている、学んでいると自覚すること、意識することで、辛い時期をやり過ごして(自分を騙しだましして)きたな…とふり返った。 入門から少しずつでも一歩、理解を深めていきたいと思えた今日である。
他者を理解しながら自分自身をさらに知っていくことを畏れないように。
私にとっての例えば「心理学」という学問みたいなものが、別の人にとっては「思想」や「占い」であったりするのだろう。
A君のこれからの人生が輝きを増していきますように…。 君を照らしているはず。 お父さんの星。
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