ふつうっぽい日記
もくじ|過去|未来
組織を管理する立場の人たちの引き継ぎ、具体的な制度のもとで任務に当たる人たちの引き継ぎ。
「引き継ぎ」について立ち止まり考え込んでしまう。
考え込んでしまう理由は分かっている。 でもだからといって、その理由を私個人が抱えて悩む立場ではない。
企業と学校とで比較されることは多々あると思う。 問題(弱点、努力すべき点)を解決していくためにある「案」があがり、それを実行していくために「計画」が作成されていく。その「計画」がそれぞれの役割を担う一個人に共有され、具体的な見通しを持って試行錯誤されていく。
「学校」というところは、「上」から「案」が下りてくるような形をとる。 広い視点で見れば、それはその学校に属する子ども達の実態あってのことだけど、「上」からの「制度」として下りてくるとどうも受け身にならざるを得ないのかと思われてならない。
全国規模で「特別支援教育」は推進されている。 「支援員」や「介助員」といった教職員ではない外部からの人材も配置されている。 「ボランティア」という立場であることもある。
組織を経営する側に近い人間からすると、外部からの人材を「使う」ことになる。 「支援員」は、組織としての「学校」を支援するのではなくて、一個人の「子ども」に寄り添う役割を担う。
ーーー
ある現場で「ボランティアは申し訳なくて使いにくい」という声を聞いた。 その言葉を発した方は、ボランティアが「無償」であることを強調されてあった。
なるほど、もしも、それなりの手当等が発生する「専門家」であるならば、費用が発生しているのだからいろいろと気になることを遠慮無く言えるしとことん動いていただこうではないか!という気持ちになるのかもしれない。
「申し訳ないと思わずにすむボランティア」というのはどういう場合なのだろうか、ということを考えてみた。金銭的には「無償」であるが「ギブ&テイク」の関係が成立している、ということだろうか。
半年ほど私はボランティア活動をしたことがある。 何が支えになったかというと「ありがとう」の言葉だった。 「いつも子ども達のために見守って下さってありがとうございます」 たった、それだけの言葉ではあるがプライスレス。
結果として「学校」や学校「職員」の手助けをしているだけであり、一個人である「子ども」のために安全面を見守り、その子どもの発するメッセージをキャッチして周りに伝える「大人」の存在に過ぎないのだ。 「子ども」それも課題を抱える(障害を持つ)子どもの発達を思えば、ただお互いの存在を認める、それだけで十分に価値があると私は思う。 そこには確実な一対一の「コミュニケーション」が存在する。
コミュニケーションから人は多くのことを学ぶ。
「無償」でコミュニケーションをテーマにした実習、実践を子どもが体験することができるのだと考えるのはどうだろう。 対応していく大人の「資格」のようなものとして、「子どもが、くそばばぁ!と暴言を吐いたり、時に未熟さ、不器用さから繰り広げる行動や表現を通して、子どもを理解することができる人」
偏った表現ではあるが、「ボランティアは申し訳なくて使いにくい」という真意は「ありがとうと言う気持ちを抱き難い困った状況になる場合もある」「善かれと思ってしている行動に我々は文句が言えない」「複雑な心境を察していただきたい」ということを伝えたいのではないか、と。
ーーーー
「引き継ぎ」が的確に実施できるためには日々の役割(任務、仕事)の反省(ふり返り)が不可欠だと考える。 日々でなくても定期的に。
「反省」(ふり返り)が的確にできるためには何が必要か。
「目標」や「計画」である。
では、その「目標」や「計画」は誰が何に基づいて作られ誰に向けて発信されるのか。
同じ「制度」のもとで役割を担う人材だが、属する組織の方針や計画性、リーダーシップによってその人材個人が持つ「存在感」「価値観」は変わる。 例え、同じ「組織」(同じ場所)にその人材が居続けても、組織を運営、経営する人は変わっていく。その人材の役割が浸透していても、組織を運営、経営する人とゼロから人間関係を構築し、信頼関係を築き、その組織での役割具合についてつかんでいくことに努力していかねばならない。
具体的な「目標」や「計画」が見えない中で、果たして、必要な人材として機能していると言えるだろうか。「ボランティア」ではない賃金が支払われる立場であるにもかかわらず、「方針」や「計画」が見えないのだから、「ボランティア」になるとぶれずにはおれないだろう。 なるほど、そうか。 「無償」ではない人材の使われ方の基盤が揺らいでいるのだから当然ともいえるか。
「制度」で配置される人材として、組織を運営する、経営する人たちへ。 組織を「制度」が機能するような環境に整えてから人材を配置していただきたい。
ただ「制度」(決まりだから、「上」からのお達しだから)だからという流れにのせて、日々やり過ごすだけというのは費用の無駄遣いのような気がするし、人材の向上心、モチベーションも揺らぐ。
唯一、支えているものは、「子どもの笑顔」「子どもの行動」、守っていくべき「子ども」の存在だ。
計画的に、効率的に、使っていだたきたいと切に願う。
いや、私がちっぽけに願うだけでは何も変わらない。
充実感を持って、達成感を持って、より善く「使われる」ために、知識やスキルを習得し、「学ぶ」努力を惜しまず、行動につなげていくことが私に課せられた使命なのかもしれない。
「ボランティア」という立場でも、体験料をこちら側が支払いたいくらい貪欲な学びを深める力があると確信しよう。
そして、私は、「子どもが、くそばばぁ!と暴言を吐いたり、時に未熟さ、不器用さから繰り広げる行動や表現を通して、子どもを理解することができる人」であり続けたい。
|