ふつうっぽい日記
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2011年08月08日(月) 「お父さんがね…」

母からのメール。

「お父さんがね…」

まぁ、この場合の「お父さん」というのは母の父親のことではなく、【夫】のことである。私にとっての父親であることから「お父さん」と呼んでいるのである。

この呼び名に関してはいつか、何度か話題にしたことがあるような気がする。二人家族に子どもが参入して増員した時、呼び名が変容を遂げることは珍しくはない。

子ども心には、「どうしてお父さんは自分の妻のことをお母さんというのか。どうしてお母さんは自分の夫のことをお父さんというのか。」という疑問を持ちながらも、それをストレートに質問する機会を逃しやすい。

そして、もうすでに、我が子が実家を離れ、世帯が別になっているにも関わらず、そういう呼称を使い続ける状況。
まぁ、たしかにだからといって、だからこそ、そういった二人の世界の呼称に関知しなくてもいいのだろうけど。

夫婦は他人同士なのに、その子たちには確実に繋がっている関係が発生する。


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メールの内容というのは、まぁ、どうってことないようなことではある。
父親が久々に娘婿と飲みたいというありがちな内容。
それを伝えるのが母親というところに、私は少々違和感を覚えたのだと思う。別に母親にとってはどうってことないけど、夫が言うつぶやきを聞いてまったからには、「伝えないといけない」みたいな形。
母親だからそうなるもの、と一般化できることではおそらくはないと思う。
相手が夫の言葉でなくても、なんだかで自分を経由させて「伝えないといけない」という気持ち、使命感みたいなものに突き動かされて行動せずにはおれなかったのだと思われる。

その内容が相手にとって、あまり意味がないことであっても、使命感の力は大きい。


こういうことを思い出す。
イトコ、つまり母親にとっては甥っ子から、私、つまり母親にとっては娘に対して、こういうことを言われた様子。

「メールが来たけど、内容が空白だった。嫌がらせかよ!ってムカついた。」
私はイトコと我が母がそういった会話をするということも分からないし、母が「メール」についてどのくらい理解があるのかということにも無関心だった。

【ある時】、母から私は聞かされるのだった。
「イトコ君がアンタに対してムカついていたよ。無言のメールが来たとかで…」

イトコの「ムカつく」という感情を母親が思いがけず受け止めてしまうことになり、その感情が母の中で【ある時】盛り上がり、本来受け止めるべき相手(つまり、私)に「伝えないといけない」みたいな強い気持ちが盛り上がって行動を起こす。

いわゆる「板挟み」という状況に似ているのかもしれない。

他にも私が父に対して働き掛けたことが母を通して、なんだかの反応が返ってくるというシチュエーション。私としては、父から直接伝えてくれたら、抱かなくて済んだかもしれない誰に向けていいか迷う思いや気持ち。

「経由」すると、情報のようなものを蓄えることになって、結果としてそれらを組み合わせて「思い込み」ができあがっていく。
「思い込み」によって、語られたり、伝えられたりする内容は微妙な形になる。

まぁ、だからといって、「思い込み」をゼロにするなんていうことは不可能に近い。


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ここで、もう少し私が掻き出された思いについて考えてみる。

≪メールの内容というのは、まぁ、どうってことないようなことではある。
父親が久々に娘婿と飲みたいというありがちな内容。≫


どうってことないのならば、つっかかることはないはずである。

「父親が我が夫と飲みたい」という思いを父から直接我が夫へ伝えられる場合、二人っきりでその計画が実行されるパターンと、夫から私に「こういうことをお義父さんが伝えてきたんだけど…」と相談されるパターンが考えられる。

実情からすると、上記の二つのパターンの可能性は低い。

父から私に対してはありえる。
その場合、計画実行には暗黙の了解として父の妻である、私にとっての母親も同伴となる。


母を経由して、「あなたの父親があなたのご主人と飲みたいと言っている」と伝えられると、受け取り方によっては、その場に私がいることは必ずしも必要ではないのか?と解釈できてしまう。
さらに、経由している「母」は、上記の例のように、暗黙の了解としての同伴さえも薄い。

母を主体にすると、「私はとくにそういう思いはないけど、我が夫、つまりあなたの父親がそのように言っているだけで、私はこれをただ伝えたまで」と、控えめな主張をすることによって、断られた時のダメージを抑えようとしているようにも思える。

私としては、「母」を含んだ誘いの形、つまり「両親」の思いとして伝えてもらえると素直になれたはずなのだ。


身近な家族であっても、コミュニケーションというのは受け取り方で様々な思いが交差する。
だから、コミュニケーションを取ること自体を避けたくなる思いが盛り上がることだってある。この気持ちは否定できない。

たかだか身内のやりとりではあるが、こうやって、立ち止まり、コミュニケーションについて考察する、自分自身に問いかけること自体は、私にとってはとても有意義なのだ。
この有意義さ具合を両親に共有してほしい、という思いは持っていない。

言葉にするならば、父親にはどうか手を離して見送っていただき、母親には母親自身の中に温かさと喜びを与える力があることにもう一度気づいてほしいと願う。


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世間は「夏休み」「盆休み」で、何かと親族が集まったりして食事をしたりする。普段、あまり会わない家族も「盆と正月だけは」と集まるきっかけになることは「ふつう」なのだとは思う。

でも、だからといって、その「ふつう」の枠に苦悩して収めなくてもいいだろう、というのが私の思いである。

その一つの大きな特徴が私たちが二人家族であることなのだろうが、これも「だからといって」意図的に、計画的にその状態を維持することに努めているわけではないのだ。

それぞれの素直な形でペースで、探り合いながら、コミュニケーションを続けていくことが人生そのもの。


「私」を存在させて語っていく人生でありたい。


KAZU |MAIL