ふつうっぽい日記
もくじ|過去|未来
私が、14歳だった頃のことを昨日思いだしながら、「こうだったのかな」と繋がったことがあった。
当時親しかった友人2人に「明日、動物園に行こうよ!」と誘った。 友人は、「いいね〜」と賛成してくれた。
ところがである。 待ち合わせの時間になっても、2人は姿を現さなかった。 まだ携帯のなかった時代である。 公衆電話から自宅に電話をかけて2人から何か連絡がなかったかを在宅していた母親に尋ねた。
何も連絡はなかった。 私は切ない気持ちで帰宅した。 そして、2人に電話をした。 2人とも、別の用事で留守だった。
私は自宅で悔し涙を流した…かどうかは忘れた。 泣いたような気もする。 しかし、結構、あっさりと母親が「人生には裏切られることはあるの…」と諭す言葉を私にかけてきたことは覚えている。
どうして覚えているのかを今になって、深く考えてみた。
私は母にも驚いてほしかったのだ。 衝撃な気持ちを共感して欲しかったのだ。
「え?!約束したのに2人とも来なかったの?!ひどいわね〜!まったく!」 みたいな感じで。
ところが、予想に反して母のかけてきた言葉は違っていたので、その悔しさも涙の一部になっていたと思われた。
14歳。思春期という時期でもある。
そして、今、当時の母親の思いを勝手に考察してみることにする。
「絶望的観測」「悲観的観測」「出来なくて当たり前」「そうなるはずがない」「出来るわけがない」といった思考が基盤にあったのではないか。
あらかじめ期待しなければかき乱されることはない。 「やっぱりね」で済む。
母の行くことができなかった幼稚園にも娘は行った。 ピアノがある家にだって住んでる。 そういった恵まれた環境、母親が夢見ていた環境に娘は当たり前のようにいる。
「人生、生きていれば、裏切られることだってある」 この言葉は教訓的であり、生きていく上での哲学になるとか、大人の社会はそういうものだと人生の先輩として伝えたかったのだろうなとは思う。
でも、そこには「信じる」ことの大切さなんていうものは繋がってこない。 「ありがとう」や「ごめんなさい」も。
家の中で私は「ありがとう」と言った記憶がほとんどない。 学校生活でもあったのかも思い出せない。 たくさんありすぎて、覚えていない、というのとも違う。
「ごめんなさい」というのも、人に言われてから気づいてまたは仕方なく言うことの方が多かった。
ーーーー
「信じること」「ありがとう」「ごめんなさい」
辛いのに大切な気持ちを素直に話してくれて「ありがとう」 その涙はあなたがお友達を信じていたからこそ、出た涙だと思うの。 人を信じること、信頼することってとても大切なこと。 あなたは素晴らしいわ。 もしかしたら、お友達は用事があったんだけどあなたの純粋な気持ちを考えると「ごめんね、明日は行けない」って言いたかったけど言えなかったのかも知れないわね。 もし、あなたがお友達の立場になったときに、そういう思いを持ったときに、「誘ってくれてありがとう。」と気持ちを素直に受け止めてから、用事があれば素直にそのことを言えばいいの。 今のあなたにはそれが出来ると思うの。
ーーーー
結構多くの女性が、思いがけず「母親」という役割を担うことになると思う。 完璧な、計画的な、確実な妊娠で、確固たる「母親」という役割を理解してそうなる人というのはあまりいないと思う。
結婚すれば必ず子どもが生まれる。
そう思っていた純粋な時期もあった。
ーーーー もしかしたら、以前にも似たような内容を書いたような気もする。
「お母さんは、学校の先生になりたかったの。大学にも行きたかったの。 でも、行きたくても行けなかったの。」
この言葉を聞かされた私は去年の春先くらいまで疑わずにずっと信じてきた。
不思議なもので、こういう思いを聞かされていると、叶えられなかった母の夢を私が叶えてあげたい…と自然に思えるようになっていた。
「どうしてお母さんは先生になりたいと思ったの?」という質問をするほどのゆとりは当時の私にはなかった。
「子どもが好きだからよ」とか「教えるのが好きなの」とか答えたのかもしれない。
私は私なりに考えて、「先生になるなら小学校」と決めていった。
でも、どうして小学校なのか…。 それは、幼稚園は私自身が幼稚園に通うことが嫌でたまらず先生に対してもいい想い出がなかったからだ。ちょくちょく「おもらし」をしたり、給食を食べるのが遅かったり、口数が少なく、様々な活動に指示が通っているのか微妙な反応だったことは、私自身も自覚していたのだ。
中学時代、理科の先生もいいなと考えた時期もあった。 しかし、中学時代の三者面談だか進路相談で「中学校だったらあなたはぶん殴られる」と母は言い、担任(担当は国語)も「小学校なら文系だな」などと、今思えば「それはいかがなものか?!」と思えることでも、「そう2人が言うなら小学校なんだ」となぜだか納得していたのだった。
時は流れ、教員採用試験の結果を待つという日。 厳しい状況ではあることは承知であったが、自分でちゃんと結果を受け入れる準備をしていた。 しかし、あるはずの結果が入った封筒を妹が持ち出すということが起こっていて、「薄そうだから多分、お姉ちゃんも受かっていない」という衝撃な台詞を聞かされかき乱される気持ちは、今でも時々思い出す。 また、その日はたまたま叔母夫婦が来ていて、そういうことが起こって自室にこもっていた私を無理矢理に母は引きずり降ろして叔母の前で「ちゃんと挨拶をしなさい!」と叱ったのだった。
母なりにその後のフォローはあった。 「くやしいのは分かる。あなたはお母さんが行けなかった大学にも行けて、教員免許だって取れたじゃないの。そこまで出来ただけでもすごいのよ。」
やはり、14歳の頃の悔しさに似たようなものがあった。
試験の結果がどうということではなかったのだ。 大切な結果を自分以外の人間を通して知ることになったことが辛かったのだ。
もしも、自分でその結果を受け止めることが出来ていたら、「やっぱり、ダメだった〜ダメだと思ったんだよね〜難しかったし、採用人数も少ないから仕方がないよね〜」みたいに顔で笑って心で泣いて的にバランスを取れていたと思う。
なぜだかそうなってしまった状況。 起こってしまったことは仕方がないというのは分かっている。
さらに時が流れ、3年ほど前から偶然の様な必然のようなタイミングで私は小学校で「先生」と呼ばれる活動をすることになる。
教員志望があった私としては夢が叶ったとも言えた。 そして、母の夢も叶えられた…かもしれないという気持ちもあった。 そして、同時に、母から「あら、よかったじゃない」とか「あなたが先生と呼ばれているのね。素敵!」とか「是非、頑張ってね」とか認めてくれるような言葉をかけてくれるんじゃないか、という期待があった。
しかし、現実はいたって淡々としたものだった。
私が夢を叶えていっているような姿に嫉妬しているのか?と真剣に思ったこともあった。
しかし、根本から違っていたことが分かる。
ーーー
去年。
「お母さんはおじいちゃん(母にとっての父)にお前は教師にでもなって、母ちゃん(母にとっての母)の世話でもしとけ!って言われたんだ。お前(母のこと)は、器量も悪いし結婚は できないって言われたんだから!誰ももらってくれないって言われた!… それでも、おじいちゃんは、「この子はべっぴんさんになる!」って言った…」
そう、私に母は泣きながら告白してきたのだった。
祖父は、私が誕生して少し経ってから亡くなった。
私にとっては14歳の揺れた自覚のある時期から「24年の時を経て」ではあるが、母にしてみれば50年以上、いやそれ以上の時を経て抱いていた思いを他の誰かに言葉として伝えた、ということになる。それも、よりによって、実の娘に、ということになるか。
母が泣いてから、私たちは強く抱擁した。 38年かかって信頼の基盤がようやく整えられた、というような実感が私の中で感じられた。
その時の「私」は、今の私ではない。 別人、という意味ではなく。 そして、「母と向き合わねばならない!よし!今だ!」と計画的に母との語りを決断して実行したのではないのだ。
その状況は、私が確実に心身共に悲鳴を上げたから、病院に行かざるをえない状況になったからである。
私は母に言った。「おじいちゃんはひどい事を言うんだね!くそじじいだ!」 「くそじじいって言いたいけど、おじいちゃんは死んでいないんだもん…!」
母にとっての「父」の死を、ようやく受け入れられたのかな、と後から私は思えたのだった。
母の背負っていたものを私は軽くしてあげられたのかもしれないと思えたのだった。
そうして、私は気づくのだ。 「なんとなく」で一昨年入学した大学が、どうして新鮮で勉強が楽しいとしみじみ思える理由。 そして、かつて卒業して、教員免許を取得した大学での基盤の思いは、「私らしい」ものとは言えなかったのだろうと。
これから、気持ちを新たに、教師を目指すのかと問われるとそれはちょっと違う。 人との関われる現場であれば、私は有意義に成長できる!という確信みたいな自信みたいなものを忘れなければ出会いが「たまたま」であっても、与えられた場で自分の役割を引き受けることができるのではないかと。 漠然とした曖昧な根拠のない自信じゃないか、とも思える。 でも、今の私はそれがしっくりとくる。
曖昧さの中で自分の存在を意識する。
お盆の真っ最中。 こういう有意義な気付きを与えてくれた、母の父である、亡き祖父に感謝したい。 そして、私を存在させてくれた両親にも、ありがとう。
|