ふつうっぽい日記
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2011年08月26日(金) 特別な支援、特別な資格

「特別」という単語を、何度も何度も見ていると、なんというか、何もかもがどうでもいいような感覚になってくる。

「どうでもいい」といっても、例えば生きることがどうでもよくなったという意味ではない。
素直な言葉では「訳が分からなくなる」という感覚に近い。

9月初旬から特別支援教育領域のボランティアとして「現場」にかかわることになった。

市町村の児童福祉主管部署職員では「資格」(社会福祉士資格)所持者が4%に過ぎないといった実態を何かの本で見た。
その話題を提供された方の、国家資格がなくても素晴らしいスキルを発揮することができる人(実践者)が多数いることも認めつつも、この現状は組織的な詐欺ともいえるのではないかという主張も印象的だった。



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特別支援教育領域の支援員は、自治体によってなんだかの資格、例えば教員免許所持者を条件としていたり、「特別支援教育」に関心があること、「発達障害」に理解があること、と幅広い。
この制度自体が、「包括的」「インクルージョン」「ノーマライゼーション」的なのだろうか、と考えることもある。

「ニーズ」とは、「必要」「要求」「需要」と訳される。

誰もが「ニーズ」を自分や自分以外の力で満たしている。


この「ニーズ」。
人それぞれ、違った「ニーズ」がある、と分かりながら、何か共通した方向や価値観に導こうとしているんじゃないかと、考えることがある。

例えば、社会的外向、内向。
情緒的安定、不安定。

例えば「オタク」と呼ばれているような特徴は、社会的には内向でありながら情緒的には安定している。対極の「非行」は、社会的には外向であって情緒的には不安定。
ほどほどが「平凡」なのだろう。
境目のことを考えると、訳が分からなくなる。

突き詰めようとすれば、何もかもが曖昧。

ある人の「足りないところ」が他の人から「ニーズ」として見えても、「足りないところ」を所有している人にとっては「ニーズ」ではないこともあるだろう。
「ニーズ」ということに気づかないということもあるだろう。
他の人からみて、ある人にその「ニーズ」が満たされていればただ都合がいいに過ぎないということもあるだろう。

ある人にとって「本当はこれをしたいと思っているのにやりたくてもできない」という気持ちが伴ったもの、それが純粋な「ニーズ」なのかな、と思った。
または、そのある人にとっての気持ちを他の誰かと共有するまでの人間関係自体が「ニーズ」なのかもしれない。



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初めて「支援員」という任務にあたる人の多くは、「特別な資格がないので不安ですが頑張ります」といった意気込みのようなものを抱く傾向にあるようだ。



特別支援教育領域の支援員としての任用経験がある私は、教員免許を持っている。
持ってはいるが、使ったことはない。
任用先は「特別な資格」は問うていない。
私は教員免許というものを持ってはいるが、だからといって教員のように支援することをしないように意識している。そこが難しいところであり、支援員としての立場が試されるところである。

教員免許というものを持っていて、支援員任務にメリットはあるのかについて考えてみる。
「教員」との距離感に対する試行錯誤のエネルギーが少なくて済むのかもしれない。
「支援員」には求められない「教員」であればこその特別な役割が分かる可能性が高いかもしれない。




「特別な資格がないので不安ですが頑張ります」

比較的、「引き」の場所からこのメッセージを聴くと、「特別な資格がないのだから不安なのは当たり前なのだから頑張らなくてもよろしい」と助言したくなる。


何があるから頑張れるのだろうか。




「支援員の辞令をもらったが、特別な研修の機会が与えられません。丸投げじゃないでしょうか。
自腹で○○研修を受講しました。めげずに頑張ります。」


私も、任用当初、こういった憤りに支配されていた。
この憤りが解決された、満たされた完全な形とはどんなものだろう。
教員免許を堂々と使う教員という立場なのか。


定期的に研修が計画されている。
その研修にかかる費用の自己負担は無し。
勤務に差し障りのない週末土日または定時以降の時間帯に実施。

この「研修」をどのくらいが有意義に、主体的に受け入れることができるのだろうか。



「支援員の辞令をもらったが、特別な研修の機会が与えられません。丸投げじゃないでしょうか。
自腹で○○研修を受講しました。めげずに頑張ります。」

「特別な研修の機会は与えられるのではなくて、自分で見つけて自分の中に必要な知識をとりこんでいくものであって、その自発的な研修に関して辞令を渡した組織から妨害されない。そして、自主的研修にかかわる費用は無料に近いことだってありうる」


何をもって「研修の機会」と捉えるか。

「研修の機会が与えられないということは、自主的に(自腹で)研修を受けろということだ」という感覚でもって「丸投げ」なのか。


「現場」での流れる時間は、かかわる経験そのものなのだから、「研修の機会」であるともいえる。
必ずしも、あらかじめ「研修の機会」が与えられて次に「研修の機会(現場編)」という流れとは限らない。つまり、いきなり「研修の機会(現場編)」が与えられて、次も「研修の機会(現場編)」であることもあるうる。


「研修の機会が与えられない」という意味(意義)を、個人の中で自然に生まれてきた課題意識(視点や自己研修テーマのようなもの)が尊重されるのだ、と受け取るのはどうだろう。


「研修の機会」というのは、「きっかけ」だと解釈すれば、意識すればどこにだって転がっているものだ。

今、本屋で読みたい本を選べと言われて何を選ぶか。
私は、選べと自分に(指示する)言う人を「研修の機会を与えるべき人(与えてほしい人)」勝手に設定して想像すると、多数の「無知の知」を痛感する場面が押し寄せる。

「勝手に設定して想像する」というのは、偏ってしまえば「妄想」になってしまうかもしれない。
しかし、目指すべき(職業や立場としてに限らず)対象が自分の中に想像上とはいえ存在させることができる、というのは特別な領域に限らず、「人生」に置き換えても重要なスキルなのかもしれない。




9月初旬から特別支援教育領域のボランティアとして「現場」にかかわることになった。
派遣先はボランティア受け入れ実績がない。

つまり、いきなり「研修の機会(現場編)」が与えられることになる。

現場の人たちとの人間関係構築や仕組みを実際的に整えていくことそれ自体から多くのことを学びたい思いが今、私の中で盛り上がっている。

私の中での「ニーズ」(たとえば足りないところ)を、ちゃんと足りないままにして(いっぱいいっぱいにしないで)かかわりたい。

少しずつ「器」を大きくしながら、いつも何か足りない。
そういうのが理想。
ちゃんと足りないところがあればちゃんと誰かが満たしてくれる。
そうすればその「誰か」の存在に心から感謝できる。
ありがとうって言える。


KAZU |MAIL