ふつうっぽい日記
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2011年08月28日(日) 「大好き」

ここ1年ほどをふり返り、言葉(発言、文章)として「私は〜が大好きだ」と表現している人、その姿が強く印象に残っている。

別に、恋愛的な内容での告白という状況ではなく、人生の師匠のような存在として尊敬している人に対する感情。

「好き」ではなく、「大好き」という表現。
好き嫌いがはっきりしているのかなぁなどと勝手に分析をしてしまう。
「大好き」を「ふつう」に使う人にとっては、平凡である「ふつう」が「好き」であり、その度合いが大きい、濃い場合を「大好き」と言っているのかもしれない。

「よく分からないこと」に縛られて心身のバランスが取れなくなった頃、はっきりした自分になりたいという希望から、「大好き」という言葉を伝えることに一生懸命になっていたことを今となってほっこりと思い出す。
バランスが取れていないゆえに、誰かに支えて欲しい、認めて欲しいとすがる行動。

今の私は「よく分からないこと」だからこそ、「よく分からないこと」に心を持って行かれないようにすればよくて、具体的に分からないことが分かった物事に関して具体的に悩み考えることをすればいいのだと解釈できている。だからといって、この考え方が普遍の原理だとは考えない。

あちら側で考えるとこうなってしまって、こうなってしまった経験はそれ自体は価値あるものだけれどもできれば再びこうならないようにしたいので、「こちら側」で考えてみたくなった、という感じに近い。


例えば、「癒し」と「ストレス」とがあったとして、来るべき「ストレス」に備えて今の内に思いっきり「癒し」を与えておこうというより、あの「ストレス」があったからこそ、この「癒し」に出会えた、という流れが腑に落ちる感じ。


予防接種もたしかに大切。
引きでみれば、その予防接種を存在させることができたのは、切実な犠牲があったからともいえる。


こんなふうに前向きに考えて自分自身と対話できるようになったのは、辛い出来事のおかげ。
この考えは私は「大好き」で、このことを私に気づかせてくれた場に深く関わった人たちに感謝している。

なるほど、そうか、その影響を与えてくれたのが一個人である場合に、その一個人に対して「大好き」と言いたくなって言うのか。

「ある人」がその人の心にとって「大好き」として存在している、「大好き」に関わるエピソードが語られ表現される場面に同席することになった「私」への影響は、「ある人」はこれっぽっちも心配していないし、疑問の対象にもあがらない。
「ある人」自身の中の、その人の思いをただ語っただけであって、その内容を聞き逃すのも自由、深く考えるのも自由。

しかし、こういうこともあるので人間というのはなんとも深くて面白い。
それは、「その時」はスーッとただ言葉が通り抜けていった様で大きく感情が動かされずに流れたことが、何日も、何年も後になって、バーッとメッセージのような感じで届いたような感覚。

流行の映画。
何年か経って、その根底に流れるテーマが自分に迫ってくるという感覚。


歳を重ねること、「大人になる」ということは、自分という庭に花が咲いていたことにふと気づいて、その花の種やつぼみのことを自分なりに関連づけられるようになることなのかと思った。

「人生80年」であれば間もなく折り返し。

これからの時間の流れは、「あの時のあれはこのことに繋がっていたのか!」と気付きの連続なのかもしれない。


「あなたからたくさんのことに気づかされた」と何人かの人に言われたことがある。
でも、私には意味が分からなかった。
でも、意味が分からないのは当たり前。
「気付き」という思いは「気付き」として通過した、相手の中での化学変化のある一瞬みたいなもの。そして、私自身には相手を気付かせる意図なんてものはなかったのだから。

他者の存在から、自分を知って、そこから他者の存在に感謝する。


引きすぎなのかなと思うが、私は私に影響を与えてくれる「考え方」というものに対して「大好き」という感情を持つと考えることがしっくりくる。

たまたまその「大好き」な「考え方」であるのが「あなた」であるにすぎない。
「あなた」に似た「考え方」の人はたくさん存在する。


こう考える私であるので、私はこう別れの時に言ったことがある。

「私みたいな人はたくさんいます。私みたいな人を探してみてください。きっと、その人はあなたのことを大切にしてくれるはずです。」


「この人は私がいないとダメだ」とか「私じゃないと、この人はきっと困る」みたいな「私」は、「私」の重要な価値みたいなものを表現しているように見えて残酷な視点。
「この人」と「私」の共依存。

「この人」も「私」もお互いに支え合っている意識が流れるまでの、あれやこれやの試行錯誤、押したり引いたりの駆け引きみたいなものからたしかな「絆」ができると考える。
「支え合う」ための「原因」とか「理由」を越えた向こう側、こちら側から、今日も「私」は「あなた」を見守っています。それは「あなた」が私にとって「大好き」な考え方をする人だから。


ーーー

小学1年生で「先生、結婚しようよ!」って。
あれは、忘れられないピュアな場面だったな。
君のこの「私」というちっぽけな存在を受け止めてくれた上でのこの告白は、大きな励みというエネルギーを与えてくれた。癒しの存在だって後から気付いたっけ。

「お願いだから、あっちへ行ってよ」が口癖のような君の言葉。
私はこりずに君のそばに居続けることを頑張ったっけ。
いつの日か、君は私が君の存在に気付いていない場所からでも急接近してきて君の存在をアピールしてきたっけ。
そう、私が毎回同じような服装だったのは君に気付いてほしかったからなんだ。
周りの子達は「先生、またこのジャンバー着てる!もしかして、他の服、持ってないの?もしかして貧乏なの?」って不思議そうに言ってきたものさ。

君が君自身で私のような君を支えるための存在を必要だと分かるその時を信じて関わった日々。
君はたしかに成長した。

君よ、君のやさしい感性、感覚、大好きだったよ。

君よ、元気に頑張っていますか。


ーーーー

「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです」
(『魔女の宅急便』糸井重里さん考案キャッチコピーより)


「カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことはメッセージ」
(『やさしさに包まれたなら』作詞 荒井由実さん より)


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