ふつうっぽい日記
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8月7日あたりから、気になる新聞の切り抜きをノートに貼って、何か疑問や思いがこみ上げたら言葉を書いてみる、ということをやってみている。
まぁ、継続は力なりみたいな感じで気合いを入れている訳ではないのだけど、そこが自分に優しいのか、ガッツリ毎日ではないが何かしら記事を貼り、何かしら文字にしているので、自分自身を知るためにも読み返しながら、ここに書いてみようと思う。
・学校で自殺予防教育 文科省の方針でアメリカを参考に2013年度にもモデル校を選ぶという内容。
「学校で」になってしまうのか。 「家庭」ではないのか。 「命」や「私の命」を支える基盤、発祥ともいえる家庭の倫理みたいなものから繋がることも多いと思う。 「信じる」ことや「信頼関係」が試される領域だと思った。 「学校」と「家庭」の信頼関係を繋ぐ絆の一つの役割を果たしてくれるといいな。
・障害者差別禁止 障害を理由にして障害者を不利に扱うことを禁じる条例の誕生。 「障害者が差別を受けたと感じれば、まず県が委託する相談員が話を聴いて、差別をしたとされる関係者を含めて話し合う」 「九州の他県も注目している」
障害者の感性を育てること、発言する力、表現する力。 その力を使う具体的な場を見届ける、設定する。 話を聴いてくれる人がいることを知らせ、実際に関わる体験を持つ。 コミュニケーション、双方向の理解、信頼関係が試される。 差別の事例の理解が求められる。
誰だって不利に扱われるのは不当だと感じる。 そうか、「解決策」を見いだすために「話し合い」をすること、そのことそのものが狙いなのか。 なるほど、これは注目に値しそうだ。
「…他県も注目している」 具体的に見えない主体にもかかわらず、確信している。 この表現の構造。
・本離れ 保護者で進む 「読書離れは子どもより保護者の方で進んでいることが、…調査で明らかになった。」 データは「小2」「小5」「中2」「高2」「就学前」について「読書が好き」と答えた子どもと保護者の割合がグラフで示されている。 「市教委は「若い保護者に文章への苦手意識が増しているようだ」と分析をしている。」
例えば「小2の保護者」とは何歳なのだろう。 「若い保護者」の「若い」とは何歳なのだろう。 晩婚化や高齢出産も増えていると思われるのだが、そのたりの「保護者」の年齢層に特徴はないのだろうか。
・「入院費の助成18歳まで拡大」 「子育て世代の定住化図る」
制度の利用者を想定した上なのだろうが、具体像や歴史的背景が見えない。
・「担任体罰 県を提訴」 「うつ病発症し療養」
生徒とその母親の「怒り」が、周りに「苦しみ」「悲しみ」を共感させ、正しい方向に進んでいってほしいと願う。
賠償問題として解決させていく方法も一つの手段ではある。 「精神的損害」を訴えたことによって、訴えられたことによって、その消化過程で、新たな、またはさらに深くなるような精神的な課題に繋がらないような、希望のための配慮や仕組みは考えられているのだろうか。 再発しないこと、生徒の将来を見守り、大人への信頼を回復するチームとしての仕組み。
ある出来事、思いがけず起こってしまった事件や事故。 その消化過程で精神的な課題を思いがけず抱えてしまうことはありうるのかなと思う。 課題に向き合いながら寄り添いながら、誰かや何かの支えに頼りながら、生き続けることの意味が大きく迫ってくることもあると思う。 そのことによってこそ気づけた、「絆」。 「対話」や届けられる言葉。 お互いが「存在」することへの感謝。
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先日、学生時代の友人と久々にさしで語り合った。 語り合えた、という表現が近いかもしれない。
たくさんのメッセージを受け、たくさんのメッセージを放った。
「お疲れ様(乾杯〜)」から「お疲れ様(じゃ、またね)」でひとまず流れる時間。 共通の時間を過ごしながら、一つ一つ発する言葉を音声にする過程ではそれぞれで過去の記憶が掘り起こされる。音声化された言葉は、ほんの一部だ。
友人との共通点の一つとしては、身内の精神的な課題に身内ゆえに寄り添った経験である。 そして、私は自分自身がたしかな「精神的な課題」を通過した立場でもあった。
「あなたは、どうなの?」との友人の言葉から、私たちは深い対話のような時間が流れることになった。
「あなたは、どうなの?」 これも短い表現に置き換えられている。 「あなた(の病気)は、(今、)どうな(っている)の?」 「精神的な課題」に寄り添った経験があるゆえに、距離感を持ちながらの問いかけ、配慮をしてくれているのだ。
「私」は「精神的な課題」を経験した、乗りこえたことによって、視界が開けたような感覚があることを友人に伝えようとして、「センサーを得たみたいな感じ」と表現した。 この言葉はその時、考えながら生まれたものであって、前から温めていたものというわけではない。だからといって、今、私が、自分の放った言葉、表現した言葉「センサーを得たみたいな感じ」を思いだし、深く自分に刻み直しているようなひとときを、友人も同じようにもっているとは限らない。
話を聴く側は、それぞれの視点、構えによって都合のいい部分や気になった部分を器用に取り込んでいく。録音しておいて、帰宅してじっくり聞き直す、なんてことは日常的にはおそらくありえない。
自分以外の他者へ語る、という活動を通して、今まで気付かなかった自分を知ることはとても多い。それも、語っている最中に意識されることもある。
実際、私が友人に語っている言葉としてこういうものがあったことを思い出す。
「○○さんは私が倒れて弱くなっている時にこういうことを言ってきてさぁ……。弱くなっている時にだよ。あっ。いや……。弱くなっているからこそ、相手も歩み寄りやすくなって開いていくのかもしれんね……。」
相手が心や精神といった領域の専門家ではないのに、人間というのは、こういった言葉を発することができるのだ。 たまたまその「友人」であったのかもしれないし、その「友人」だったからこそ語れたのかもしれないけれど、その具合みたいなものは、「今」意識されたものなので、確認することは難しい。 自分の言葉として語り、自分自身を知ることになったことへの喜びに感謝することが重要なのだろう。
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電話やインターネットを介したコミュニケーションは、お互いの「今」の共有が難しそうでいて、テレビ電話、ライブカメラチャットで、リアルな「今」をお互いに感じられる。
携帯メールで文字を入力する時間があれば電話をすればいいのに、と思った時期もあったが、メールは相手に「今」を求めていないともいえて、配慮されたツールなのかもしれない。 実際には、リアルに「今」受信を確認したとしても、「携帯を出先に持って行くのを忘れた」という状況もありうるわけであるので、焦らなくてもいいのだ。
関係によっては、メールアドレスしか知らないという状況もありうるが、それはお互いに了承しているのであって、電話をするかもしれないということを共通理解できれば電話番号も共有されるだろう。
私は何か緊急で伝えたいことがあったら電話をするもの、と考えている。 相手が出られなくても、着信を残し続ける、ということをすると思う。 まぁ、電源が入っていないという場合もあるのだけれど。
関わり続けることをやめない。 それが「生きている時間」そのもの。 まぁ、だからといって、「ストーカー」行為のように迷惑がかかることはしない方がいい。 賢く知的に、関わり続けることを楽しみたい。
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