ふつうっぽい日記
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2011年09月02日(金) |
学校で教えてほしいことについて |
昨日、美容室に行った。
私は美容師に「今日はどうされますか?」と、髪型の希望を尋ねられた時に、うまく説明できない。 でも、だからといって、そのことに支配されて思い悩み寝ることや食べる事を忘れるなんてことはない。
チャンスは何度でもあると思うからだ。 思ったより短くなったら待てば伸びる。 パーマがかかりすぎたらストレートにすることだってできる。
ま、ごくごく低確率で全ての髪が抜け落ちて伸びる可能性もとざされてしまうという状況も考えられるわけだけど、無視してもどうってことないと思うことのほうが多い。
そして、「チャンスは何度でもある」と思える理由は、そんなに期待していない、こだわっていない、そのような状況にした人(例えばカットをした美容師)に対して特別な「怒り」のような気持ちを抱かずにいられるからかな、と思う。
自分の未来の髪型への希望、期待。 特定の美容師への希望、期待。 コミュニケーションの深まり、奥行き。
ある時から、私は同じ店に行き続けることを選ぶようになった。 人によれば、クーポン雑誌などを見て、毎回一期一会的なワクワクする出会いも楽しむということをすることもあると思う。 別の場所へ行けることへの希望。 初めてのコミュニケーション(初対面)をたくさん経験できる。
「お店の人」と「お店を利用する人」という関係にあっても、その繋がりが定期的で、継続されていくと、「自分とはこういう人」ということ、例えば「プライベート」のような側面を語らずにおれなくなる、または、相手からそのような側面を取り込んで繋げてしまいたくなる、ということがあるのではないかと思われる。
一期一会的な繋がりでは、「第一印象」で完結される。 いや、次があったからこそ、「第一印象」について語れるともいえる。 「初対面の印象を変えたい」といった自分への期待や願望があるのであれば、一期一会的な場を活用して、「自分らしくない自分」をあえてさらけ出すことによって、自分のものとして受容していくことも出来ていけるのかも知れない。
これまでは、題名「学校で教えてほしいことについて」の内容の前置き。
美容師が語ってきたエピソードが感慨深く、そのエピソードにはある投げかけがあり、その投げかけに対する自分の発言からいろいろと思うところがあったので、そのあたりのことをつらつらと書く。
ちなみに前回は、その美容師Aさんの語られる言葉から、私は、「国を愛すること」、「愛国心」といったキーワードを読み取った。内容は、アジアの歴史から日本の特定の政治家に対する熱い想いやマスコミに対する憤りのようなものまで非常に奥行きがあり、教育や教師に対する期待と失望のようなものまでも含んでいた(と、私は受け取った)
この内容に関わるような領域やキーワードは、しばらく私の頭の中をグルグル回っていて、例えば新聞記事、例えば図書館や本屋の本を「たまたま」のようなきっかけで手にしたり目にしたりした時に、私が求めているわけではないのに、活字として内容を訴えてきているような感覚になった。
中途半端な、またはほとんど知識としてない理解であることが「脳」にとってはなんとも居心地が悪いというか不安定で、それを「脳」としては、どうにかしたいと考えたから、その「脳」と繋がった「私」に行動を起こすことを促したような、受け身のようでいて私自身の関心のようでいて、そのあたりはちょっと分からないのだれど。
今回は、「神社でのお参りの仕方の本を読んでみたんですよ」という切り口から始まった。 鳥居をくぐるところから「カランカランと鳴らすところ」までの手順とその意味のようなことを実演を踏まえて語ってくださったのであった。
「今までいかに適当にやってきたことを思うと、こういうことを学校で教えてくれたらいいのにって思うんですけどね。宗教とか思想とか特別に考えすぎずに、神社とか日本にはたくさんあるのに。」
私は少し沈黙してからこう言った。 「学校で子どもが教えてと先生に言ってきたら教えるんじゃないですかね……。」
そして、今、こんなことを思った。 学校は子どもが成長していくなかで、疑問に思った時や知りたいと思った時にどう行動していけばいいのかについての基本的なスキルを授けるところなのかなぁ。
そして、こうも思った。 疑問や知りたいという気持ちや思いが発動されるのには個人差がある。 8歳かもしれないし、53歳かもしれない。 そして、こうも思った。 疑問を持つこと自体、それは許されることなのかとか「私だけだろうか」という揺らぎ。 そしてその揺らぎ自体を、他者に伝えてみることについての迷いとの葛藤。
そして、こういうことを想像した。 この美容師さんが学童期の子どもだったら、「夏休みの自由研究」として「神社のお参りのしかた」みたいなのを提出するのかなぁ。
「自由研究」というのは、内面から発動された疑問に対して、今、思いつく自分のスキルでもって少し「形」として表現してみることなんじゃないかなと。
ここで思い出す。 学習面で特別な支援が必要なA君が、3年生の時の自由研究で「魚について」レポートのようなものを書いて提出していた。 それを提出した後で、A君が言った。 「来年は、○○について研究しようかな!B君は、来年の研究、何にするの?」 B君は、特別な支援が必要である対象ではない。 B君は「そんなの、分からんし」と返したのだった。 こういう、やりとりを「引き」で見聞きしていると、果たして、どちらが支援が必要なのかと分からなくなりそうになる。
人生を送っていく上で、B君のように「そんなの、分からんし」と流していくことも必要な場合もあるだろう。
「来年はこれをしたいな」という、A君の自分自身への希望、期待に私はA君の中に確実な可能性を見た気がした。
子どもの可能性を感じ取れること、感じ取る視点、そのための参考とする物や事の組み合わせは未知数。
「今、学校で教えてほしいこと」って何だろう。
「学校で教えてほしかったこと」を「今、学校で教えてほしいこと」に重ねたくなるのが「大人」なんだろうな。
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