ふつうっぽい日記
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2011年09月12日(月) ありがとう、感謝。

二つのありがとうのメモ。
そして、困憊の心を消化させるために。

その子は、少々焦り気味で課題に取り組んでいた。
「焦らなくていいです」と言いながらも、焦っていたのは寄り添う私だった。
不安は伝わる、本当だった。
流れとして冷静になれば、分かった課題。

指導者に素直にお尋ねしてもよかった。
でも、そうなってしまった原因のようなものは心当たりがある。
でも、だからといって、他者を批判することに気を取られたのは私の狭さ。

それは何も特別なことじゃない。
これまでにも何人もそういう人はいたじゃないか。
一対一になると挨拶をしない人。

それでも、私は自分に素直に挨拶をすることをただ続ければそれでいいのだ。
いろんな環境、状況ではそうならないこともあるかもしれないけれど、だからといって、傷つく必要なんてないのだ。
「あっそう。だったら、アタシも。」なんていって、同調することはしなくていい。
自分らしさをただただ続ければいいのだ。


内容がそれた。
どんなに時間がかかっても、課題を達成したあの子の嬉しそうな顔を思いだそう。
課題をやっている最中は、焦ったり、何度もやり直したりして、楽しさなんてゆとりもなかった。
当たり前である。
焦って、何度もやり直している最中に楽しさを思いっきり表出する子なんていないはずだ。
思いっきり、苦戦することに集中できていたからである。
苦戦に負けて、課題を中断したり投げ出したりギブアップすることはしなかったじゃないか。
指導者だって、誹謗中傷の声掛けなんてしてなかったじゃないか。
私のゆったりとした寄り添いにいらついてもちっともおかしくなかったのに、見守ってくれたじゃないか。
課題をやりきったとき、「楽しかったぁ〜」と言っていたじゃないか。
時間がかかっても、苦戦して達成した後に「楽しさ」を表出できた子どもの姿、忘れてはならない。

そして二つ目。
教室では自発的に関わってこなかった子。
今日はとても多く、目を合わせてきたっけ。
そして、じゃれてきた。
私は感動した。

自閉の子だった。

かつて自閉の子と関わったとき、「人間」として相手にしてもらえるまで2年かかったっけ。
それぞれなのだから、比べてはいけないことは分かっている。
でも、出会って2週目にしてその子の方から関わってきてくれたことが私は嬉しかった。

これは自分に言い聞かせてきたことじゃないか。
子どもとの人間関係を優先して、その姿から大人には分かってもらえたらいいのだ、と。

そして、長く付き合わねばならない役割じゃないのだ。
逸脱してもちっとも構わないのだ。
自分らしさを優先にすれば。

逸脱することで、人間の「器」は広がっていくものだ。
「足らない」ことを意識するためには、「器」を広げることも必要だ。

謙虚に、謙虚に。

そして、過去のことをあまり話題にしないように意識せねば。


KAZU |MAIL