ふつうっぽい日記
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もう15年くらい前の出来事と、1年くらい前の出来事が繋がった。
15年くらい前の出来事では、「わたし」は「寄り添う側」だった。 1年くらい前の出来事では、「あたし」は「寄り添われる側」だった。
両方の体験をしたことで、繋がったこと。
こうなるとああなってしまうのか……。 ああなるとこうなってしまうのか……。
15年くらい前の話。 寄り添いが必要だった「その人」は、身近な存在だった。 その人は、「わたし」の預かり知れない状況にその時なってしまった。 「わたし」は「その人」の変わり果てたような姿に、思わず、「その人」を抱きしめて、悲しみの涙を流した。 「その人」は、なんと、預かり知れない状況にあったのにも関わらず、「わたし」に「泣かないでいいのよ」と、まるで理想の母親のように、神さまのように天使のように温かい言葉をかけて、「わたし」を抱きしめ返してくれたのだった……。
1年くらい前の話。 「あたし」が「その人」の立場になり、「夫」が「わたし」の立場になった。 「あたし」は覚えている。 かつて「わたし」が「その人」にしたように、「その人」が「わたし」にしてくれたようなことと同じことを、「夫」が「あたし」にして、「あたし」が「夫」にしたのだった。
癒され、癒し返したような構図。 そこには、意図的なものはない。 故意に「その人」が病を選び、故意に「あたし」が病を選んだつもりはない。
病に倒れた「あたし」の姿を目の当たりにして、悲しみの涙を流した「夫」を、「あたし」は「泣かないでいいのよ」と、まるで天使のように抱きしめた感覚を覚えている。 我に返った「あたし」は、「あれ?どうして、あたしがよしよししているんだろうね?不思議だねぇ。あれ?どうして、あなた(夫)は泣いているの?あはははは。」と、あどけない子どものように「夫」に尋ねて笑ったことも覚えている。
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「自分を愛せない」「自分は愛されていない」という思いや気持ちは、多少なりとも人は持っているのかも知れない。
その振れ幅が思いがけず、大きくなったとき、「自分」が抜け落ちてしまうような感覚になるのかもしれない。
愛情みたいなものを注いだつもりであっても、受け入れる側の「器」に穴が空いていたり、ヒビが入っていたら、漏れてしまう。 そして、本当に愛情みたいなものと勘違いしてしまうような偽もので、ホンモノの愛情ではなかったかもしれない。 そして、たしかに濃厚な愛情だったけれどもそれは1CCくらいで、注がれる「器」の容量が3000CCくらいで、ごく微量なものとして気付かれなかっただけかもしれない。 そして、注ぐための「ひしゃく」や「計量スプーン」みたいなものが、ひび割れていたかも知れないし、さびたり、まがっていたかもしれない。
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「両親から注がれる愛情で育つ」とかいう言葉を聞くことや見ることがある。 「注がれる」なんてあると、目に見えるみたいに思えてしまうけど、実際は違う。 そして、「ほんま、ちゃんと注いでくれたんか?」なんて疑いたくもなる。
今日の私はこう考えると、しっくりきた。
「両親から器を作ってもらった」
「両親から命の容れ物を作ってもらった」
その「器」や「容れ物」に、両親からの愛情が大量に注がれることもあれば、ちょっぴりなことだってある。注がれないかもしれないこともあるかもしれない。
「器」や「容れ物」に入れる「自由度が狭い(小さい)」ときに「たくさん満たされている」と感じることもあれば、「息苦しい」と感じることもある。
自分の「器」や「容れ物」は、自分で何かを詰めていくのかもしれないし、誰かに詰めてもらっているのかもしれない。
それが確認できないところが、うまく出来ている人間の仕組みだね。
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「ひとりでいっぱい悩んだら、 次はだれかと話してみよう。」
「心を救う、が、命を救う。」
新聞(広告)に書いてあった言葉。
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