ふつうっぽい日記
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2011年09月16日(金) 例えば「泣く」こと

情緒とか心とか精神とか、自分の「心身」に関する事でありながらも、収まりがつかない、という状況は誰にでもあると思う。

その状況の度合いが「強」「中」なんていうのも、曖昧だけれども、本人も一番身近な誰かも「しんどい」という度合いの時は、専門家の意見を参考にするのは重要だと考える。
それを行動に繋げる、つまり、相談機関、医療機関に実際に脚を運ぶというのは、簡単な様で、その一歩には相当のエネルギーを使うのだと思う。

しかし、本人、当事者、明らかにずれている者は、そういった相談機関に「誰か」によって、連れて行かれることで救われていくのだ。

当事者に寄り添う「誰か」においても、いろんなエゴみたいな思いこみみたいなものが出てくる。


おかれた状況によっては、相談機関に相談をするという選択が浮かばずに、「呪術」的みたいな手段を選択するしかないという思考に行き着く場合もあるだろう。
今でこそ、カウンセリングや心療内科、精神療法なんていうのは珍しくはない。


昨日、キッチンに立ちながら、いきなり泣いてしまった。
前日も泣いたのだけれど、それは歌の歌詞に感動して泣いた、という自覚があった。

「病気を通過させた」経験が記憶に新しい私としては、こんな気持ちに支配されかかった。
「されかかった」と、過ぎ去ったこととして表現できたことに、私は自分に感謝をした。
どんな気持ちが流れたかというと、たとえばこんな感じであった。
「あかん。また、病気になってきている。そうか、そうだったのか。
医者は病名を言わなかったのは、実は、私はなんだかの不治の病にかかっているからなんじゃないのか。それも精神という、どうしたらいいか分からない領域。こうやって、これから先も、定期的に病気の断片を受け入れて、病院通いをすることを余儀なくされ、薬から離れられない一生を送るのだろう……。」


思えば、空腹になったらイライラする、なんていうことは「あるある」と多くの人が共感するだろう。そういうことが、「病気を通過」中は、とても特別なことに思えた。
その時、頻繁にメールのやりとりをやっていた「メル友」さんから、「あはは。誰でも空腹になったらイライラするもんですよ〜」みたいな返事があって、ただそれだけで安心したものだ。
「病気」発症前は、そういうことはしょっちゅうあったし、思い悩むことなんてなかった。

そう考えると、「病気」で思いがけないことが「リセット」されているとも言えそうだ。

たとえば、そう、昨日の「涙」。
「わーっと泣いてすっきりする」というのは「ストレス解消」の方法にもなりうることを、実感させてくれた。そのこと自体や意味は「知って」いたし「分かって」いたつもりだが、「病気」時代のことと繋げてしまわずにおれない状況になってしまったために、「え?なんで?何、この涙?病気なの?病院行けってサイン?」という「思考」になり、プチ混乱。
でも、「なんか分からないけど、泣いたら、すっきりした。ま、いっか。」という自覚がすぐに降りてくることができたのだ。
「空腹になったらイライラする」という状況を「大丈夫さぁ」と理解することに似ている。
「なんだか勝手に涙が出てきて、泣いた後、なんだかすっきりしていた。涙君、感謝。」


「空腹になったらイライラする」は、「イライラ」が「空腹」を知らせてくれている、とも取れる。「空腹」とは「食欲」が満たされていない状況。
しかし、「イライラ」するからといって、必ずしも「空腹」だからということではない。
自分を知るための視野が狭くなると、「このイライラを収めるには、空腹を満たすしかないのだ!」と思い込んでしまうというのも分かる気がしてくる。
食べまくらざるをえない、という病気もある。


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ある場所でこういう言葉を拾った。
「好きなことをやっていれば、機嫌がいいのは当たり前」


「先生」。

「あなた」は、今、機嫌がいいですか?
「好きなこと」を「先生」としてやっていますか?
「先生」という仕事は「好きなこと」に含まれていますか?
「先生」の周りにいるのは「誰」ですか?

「先生」の周りにいる「誰か」が誰もいなくなったら、その仕事は成立しますか?
「先生」の周りにいる「誰か」は、「先生」を困らせるためにそこに存在している訳ではないのですよね。
「先生」は、周りにいる「誰か」を困らせるためにそこに存在している訳でもないのですよね。
「先生」の周りにいる「誰か」の人生にとって、「あなた」である「先生」との関わりの時間はとても短いのです。

誰もが可能ならば、機嫌よく日々を過ごしたいと願っているものです。

「機嫌がいい」と分かるのは「機嫌が悪い」という状況がちゃんとあるからこそなのです。






KAZU |MAIL