ふつうっぽい日記
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季節の変わり目は、「ふつう」でもなんだか調子が不安定になるものである。 なぜなら、着るべき衣類に悩でしまうことがあるからである。
衣類を選ぶ、という行為は、「ふさわしさ」という視点で、時にじっくりと吟味されるべきものともいえるのであるが、「ただ季節が変わる」たったそれだけのことで立ち止まることが求められるところにいつもの調子が不安定になるようなものを感じてしまうのだ。
何色のシャツを着たらいいか、というレベルの迷いではなくて、例えばこんな感じである。 半袖では寒そうなので長袖を着ようとは思うが、薄手の長袖にするか、半袖のTシャツに長袖のものを羽織った方がいいか、というものである。まだ、微妙に暑さが想定されると脱ぎ着しやすいものや、袖まくりができるものがいいかな、とかそういう迷いである。
まぁ、なんだか暑かった季節から寒い季節へ、なんだか寒かった季節から暑い季節への「変わり目」というのは毎年のある一定の期間に過ぎず、これまでに「変わり目」はざっと60回以上経験しているのだから、畏れるには値しないのではあるが、「ああ……。」と感慨深く立ち止まることが歳を重ねている意識が高まるほどになんとも不安定さも意識されてしまうのである。 まぁ、そういった「意識」の層のようなものが、「老い」にキラキラとした輝きみたいなものを刻んでくれるものなのかもしれない。
ここ数日、「秋のせいだ」と季節の変わり目のせいにしているが、「うじうじしている」自分を意識化していて、疲れる自覚がある。「やる気」「やらない気」(?)の波も結構激しい。 この今日の日記も、数分前まで書くつもりはなかったのである。
なぜ、言葉を書いておこうと行動を起こせたかのか。
それは、新聞の読者投稿欄の文章を読んだからである。 日記を書くことを勧めており、特に「うじうじと」いろいろ「思い悩む」人にとっては、後から読み返すと「宝」のような存在になるのではないか、といったようなメッセージだった。 「私のように」という、投稿者を含んだ言葉も使われてあり、今のこの同じ時代に生きているのだ、ということが励みに感じたのだ。
「私」が思い悩んでいるとき、多くの「私のような」人たちもちゃんと思い悩んでいるのだ。 そして、「私」が幸せな気持ちに包まれているとき、やはり、多くの「私のような」人たちもちゃんと幸せな気持ちに包まれているのだ。
「若い頃のように」であるとか「昔のように」とか、「今」との違いを比べて、へこたれそうになる。しかし、「今」は「ただ、今であること」に過ぎないのである。 「今」だって、何年か前は確実な「未来」であり、何年か後は確実な「過去」になるのだ。
「今」を、一貫した「私」であることを続けよう。 考えの形、行動の形が変わっても、変わらない部分はちゃんとあるのだ。 考えの形や行動の形が変わることは、「私」を作っている何もかも全てが変わってしまうことにはならない。
失敗したあんなことやこんなこと、悲しかったあんなことやこんなことは、「時間」によって、ちゃんと色あせ、感慨深くふり返り「あはは」とか「やだー」とか頬を染めて思い返せる楽しい時間にだってなることもあるのだ。
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