ふつうっぽい日記
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2011年09月26日(月) 「煩悩」を見つめて

「煩悩」
英語では「worldly desires」と訳される様である。

国語辞書の大辞林では、「肉体や心の欲望、他者への怒り、仮の実在への執着など。」と出ていた。

「仮の実在への執着」なるほど。
これは、想像しやすい。
他者が目の前にいるときは、「仮の実在」ではないわけである。
あれやこれや目の前にいない他者に対して怒りややるせなさ、ネガティブな思考などを抱くこと、「仮の実在への執着」。

今日は時折、この「煩悩」が払ってはまとわりついてその度に、言葉にすがっていた。

どうして肯定的に考えられないのか。
どうして「執着」してしまうのか。
「執着」すること自体は、強固な集中力や好奇心にも繋がっていそうで悪いことではないはずである。であれば、そうか、何に対して「執着」しているかが問題なのか。

「仮の実在」
そういえば、私自身が「そりゃ、あんまりだぜ〜」と泣き笑いしたくなるような「仮の実在」を据えられて、複雑な思いをしたっけ。

そのエピソードを書いておくことにする。

Aさんが「Bさんからのあなた宛のお土産、今日、持ってこなかったわ。だって、あなたが荷物になって重いって怒るかと思って」と言ってきたのである。
それに対しては「なんで、そういう風に考えるの〜?そういう風に考えないでぇ〜そんなこと言うわけないじゃないの〜」と返したのだった。


今日、度々、まとわりついてきた「煩悩」
なんとすごい、この日記を書いている最中に「仮の実在」ではない「実在」する人から、電話がかかってきて、「仮の実在」とのギャップを修正することができた。
電話ゆえに、表情まで読まれる心配はないが、内心、ドキッとした。
しかし、素直に動揺するところは動揺の声を素直に発して、お互いに話題を収めることができた。

穏やかに一件落着である。
なんともタイムリーな落着の仕方。
まるごと、覚えておこう。
いや、また、何かの時に思い出されるかもしれないかな、くらいにとどめておこう。

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今日は、軽度の風邪引きでボランティアを休ませていただいた。
行こうと思えば行けないこともなかったが、「ゆとり」の幅を広げられた日になった。
施設ゆえに、急な「給食」の取り消しは不可能だっただろうが、こういう状況もありえるはずである。


KAZU |MAIL