ふつうっぽい日記
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2011年10月04日(火) |
優しい風がカーテンを膨らませる |
今日は秋晴れみたいな心地よい陽気だ。 昨日、少し気になる咳が出た。 昨日の夜の時点では、「明日、病院に行こう」と思っていた。
明日である今日。 時々、咳のようなものは出るが、心当たりの風邪の余韻であるので、何思い悩むことはない。 大丈夫だ。
まぁ、過去にストレスが影響していたかもしれないような咳の連続が気になることもあったけれど、それは確実に過ぎ去った「過去」のことだ。 「過去」をお手本に「今日」を生きる必要なんてないのだから、大丈夫だ。
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なんだろうか。 やはり、秋だからだろうか。
それとも、「よくある日常」、見通しの持てる日常だという錯覚や思いこみがそうさせるのか。
涙君と仲良しな30分のひとときであった。
喜びや楽しさ、そして、悲しみと苦しみは二つでセットなんていう歌詞があったっけ。
たしかに、昨日の私は喜びに満ちあふれていた。 今日だってすがすがしい朝を迎えられた。 そうか、そのバランスを取るための涙君のお出ましという訳か。
なるほど、納得してみたくなる。
涙君を単体で収めようとするから、しんどくなるんだな。 一生懸命にその涙の理由を探そうとするわけだな。 時に過去に遡って、「あの時の私がひとりぼっちにされたからだ」「あの時泣けなかった涙が今になって出ているんだな」とか。
厳密に分かるものか。 それは、「どうして風邪を引いたの?」という答えを考えてみれば分かる。 人混みの中で受け取ったウィルスなのだろうが、そこへ行かなければ受け取らなかったのならば、さて、そこへ行ったのは誰なのか、行く予定を実行したのは誰なのか。
他ならぬ、自分なのである。
なるほど、「自分自身の中に鍵はある」。 たしかに、である。
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さきほどの涙君。 なんと、その涙を癒したのは、偶然に開いた自分の文章だった。 聞き間違いの様子を表現しており、「よく分からないが、反省はしない」みたいな言葉で締めくくっていた。 自分の聞き間違いの責任を問われても知ったこっちゃない、というようなことを伝えたかったのだろう。 なるほど、私らしい。
自分で自分を癒す。 自分の言葉で自分を癒せるということは、「エコ」である。 昨日の自分の言葉に癒しを求めるのは、難しいのかもしれないが10年以上前、俗に言う「一昔前」なんていうのは、自分の思考の浅はかさ加減が心地よい余韻を与えてくれて、まるで「セルフ温故知新」ワールドである。
そうか、なるほど。 もしかすると、余計なお世話だったのかもしれない。 何の反省か。
先日の父への手紙に、「生きるヒントを持っているか」的な問いかけをしていた。 やはり、こういった文章を受け取るというのは、「こいつ、正気か?」と首を傾げたくなるのが「ふつう」なのかもしれない。
父は日記を書いているらしい。 おそらく、時々はそれをふり返っているのだろう。 そして、「アハハ……」と時に苦笑爆笑しながら明日への希望を持てているのかも知れない。
「煩悩」さん。 やはり、あなたは意識してもぬぐえないものですなぁ。 「悪者なのか?」「いや、悪者とはいえない」と、守りに入って、味方のように取り込んでも。あなたはマイペースのままなんですなぁ。 いやはや、失礼をお許し下さいませ。 あなたは、偉い。 いやいや、だから、持ち上げても、マイペースだって。
どんなに頭の毛の色を変えても、形を変えても、「可愛いあんよが出ているよ」的に、親というのは子の背伸び具合が実のところ、笑いたくて仕方がないのかもしれない。 「ほんまは、分かっているけど、あの子のことやから、騙されたふりしといたほうがよさそうやな」的な賢さが、親にあればいいのになぁ。 だいたい、これは無理な話なのである。 なぜならば、子どもの期待通りに親は行動したり言葉を発することなんて不可能だからである。 もし、そんなことが出来たりしたら、心や思いつきそのまま盗聴されていることになってしまう。 ああ、おそろしや。
私は、多分、自分が思う以上に「変わって」はないのかもしれない。 幻聴やら自分らしくなさそうなエネルギーのようなものを借りて、突っ走ったような文章を書きなぐった不調の去年と、例えば、先日、贈った父への手紙は、どんなに頭の毛の色を変えても、形を変えても、「可愛いあんよが出ているよ」的であって、その個性のようなものが広がったとか例え話が違う話題になったに過ぎず、「こうなってしまうんやねぇ……。もう、これは、しゃーないなぁ。ワシはワシの人生、楽しむことにするし、アンタもきばりや〜人の心配せんでよろし。ほな、また〜風邪には注意しぃや〜」みたいなことを風で伝えようとしているのかもしれない。
文字や音声でもない、自然現象からメッセージを勝手に読み取る。 「幻聴」とは違う、優しい心地よいメッセージ。
「あんた、まだ生きとったんかいなぁ〜あははははは」 「ちょっと、怖いこと、言わんといてくれるかぁ〜。あんまりやで〜あはははは」
こういう、世間話みたいな空気。 こういう空気の中にいると、例えばあるところで「障害」として括られていたとしても、括られない広さがあるのかもしれないと思った。
「障害とは何か。」 もっともっと、曖昧にさせて、いろんな「あははははは」を発して「あはははははは」を受けとる人生っていうのもなんだか楽しそうやね。
楽しくなってきました、「先生」。 楽しくやっていけそうです、「先生」。 「先生」、やっぱり、貴方は偉い! これからも、見捨てんといてくださいね。 ありがとう(※関西風に)
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